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【感想と考察】「1973年のピンボール」でのピンボールとは

読了後の感想

7年ぶりくらいに読んだけど、思ったよりも面白く読めたし、最後のピンボールとの会話のシーンは、読んでる途中で、まじかあ、と顔をあげて感慨にふけってからまた読み進める、みたいなことになりました。
他の村上春樹の作品と比べて、若い人(自分も含めて笑)が読むには決して読みやすい小説ではないけど、なんか分かるなあ、という気持ちには辛うじてなれる。出版と同時に村上春樹と同年代の人が読んだらすごくよく分かる小説なんでしょうかねえ。

この小説は、時代背景を知らないとよく分からないかもしれません。

時代背景として、1960年代の学生運動の中で、人々が急速に社会システムに取り込まれていく、という社会変化がありました。「僕」と「鼠」はどちらも気持ち的には社会変化に馴染めていないですが、それぞれが変化後の社会にどう反応しているか、が面白いなあ、と思いました。
あと、タイトルにある「ピンボール」とは何か、というのもいろんな解釈ができそうだけど、さっちーなりの解釈を書いてみました。

・「殆ど誰とも友達になんかなれない」
・誰もが自分のシステムに従って生き始めていた。それが僕のと違いすぎると腹が立つし、似すぎていると悲しくなる。
・僕の心と誰かの心がすれ違う。やあ、と僕は言う。やあ、と向こうも答える。それだけだ。誰も手を上げない。誰も二度と振り返らない。
・問題は、と僕は思う、僕に合った場所が全て時代遅れになりつつあることだった。

・女と会い始めてから、鼠の生活は限りない一週間の繰り返しに変わっていた。
・水曜日だけが行き場所を失い、宙に彷徨う。前に進むこともできず、後に行くこともできない。水曜日.......。
・「始めのうちはそりゃ楽しかったかもしれない。でもね、朝から晩まであれ(=ピンボール)ばかりやってみなよ、誰だってうんざりするさ」「いや」と鼠は首を振った。「俺はしないね」
・「なぁ、ジェイ、だめだよ。みんながそんな風に問わず語らずに理解し合ったって何処にも行けやしないんだ。こんなこと言いたくないんだがね......、俺はどうも余りに長くそういった世界に留まりすぎたような気がするんだ」

どちらも社会に馴染めておらず、過去に固執しているようです。でも鼠にはさらに過去に留まり続けたい、という気持ちがあると感じました。お金持ちの息子の鼠は「僕」とは違って働く必要もなく、人との関わりもあまりありません。(ジェイと女と僕くらい)
一方で、「僕」は翻訳事務所で生計を立てて、その事務所の女の子と(話したくはなさそうだけど)話すし、よく分からない双子と暮らしているし、配電盤を取り換える人や、スペイン語を教えている大学教授とも話します。さらに「直子」という恋人もいたようです。
このように社会との関わりをどれだけ持っているか、持とうとしているか、は「鼠」と「僕」の決定的な違いかと思いました。

ピンボールとは

「僕」には「直子」という恋人がいましたが、1969年から1973年のどこかの時期に亡くなってしまっており、このことに対して「僕」は無力感を感じているようです。
自然な解釈としては、「直子」が亡くなってしまってから、「僕」が「1970年の冬」に「ピンボールの呪術の世界に入りこんだ」と思われます。

あなたのせいじゃない、と彼女は言った。そして何度も首を振った。あなたは悪くなんかないのよ、精一杯やったじゃない。違う、と僕は言う。違うんだ。僕は何ひとつできなかった。指1本動かせなかった。でも、やろうと思えばできたんだ。人にできることはとても限られたことなのよ、と彼女は言う。そうかもしれない、と僕は言う、でも何ひとつ終わっちゃいない、いつまでもきっと同じなんだ。

「僕」にとっては「直子」と「ピンボール」は結びついてしまっていて、最後のピンボールの「3フリッパーの『スペースシップ』」との会話は「直子」との会話のように読み取れます。(「直子」との会話だと思うと泣ける…)

ずいぶん長く会わなかったような気がするわ、と彼女が言う。僕は考えるふりをして指を折ってみる。三年ってとこだな。あっという間だよ。
君の事はよく考えるよ、と僕は言う。そしておそろしく惨めな気分になる。眠れない夜に?そう、眠れない夜に、と僕は繰り返す。彼女はずっと微笑みを絶やさなかった。
辛い?
いや、と僕は首を振った。無から生じたものが元の場所に戻った、それだけのことさ。

「僕」は、社会の変化に馴染めずに過去や死別した「直子」との思い出にも固執していました。しかし、この1973年に再会したピンボール(=直子)との会話によって、癒されているように思われます。

僕たちが共有しているものは、ずっと昔に死んでしまった時間の断片にすぎなかった。それでもその暖かい想いの幾らかは、古い光のように僕の心の中を今も彷徨続けていた。そして死が僕を捉え、再び無の坩堝に放り込むまでの束の間の時を、僕はその光と共に歩むだろう。

最後に「僕」は「双子」とも別れ、「古い光」とともこれからの不確かな未来を生きていこう、という心情が読み取れます。

鼠の行方

一方で、鼠にとっての「ピンボール」は固執すべき過去のものです。そこには人と共有された暖かい想いはありません。しかし、鼠は最後には女と別れ、町を出る決心をします。
つまり、癒しも何もないまま、これからの未来を人と関わることなく一人で生きていこうとしています。1960年代の社会に固執し、1970年代以降をそのまま一人で生きていく「鼠」は町を出てどうなってしまうのか。自然に解釈すれば、「やっていけなくなる」のではないかと思います。

物語全体の表現

この小説の特に前半で、時系列や話の展開が連続していないですね。
これによって読むときに、時系列を整理しながら読まないといけないことで何度も読み返す、「僕」が思いついたままに話していることや「僕」が過去の出来事に関して混乱している様子を暗示しているのではないかと考えさせられる、という影響を受けました。
これが作者の意図したこととは違うかもしれないけど。。。

ちなみに「直子」という名前の登場人物は、村上春樹のある長編小説のヒロインで出てきます!乞うご期待!

以上です!最後まで読んでくれてありがとう!!!


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