選択練習(2020年4月26日)


この春、私は再度大学に入学した。

とはいっても、通信制なので、仕事は続けながら、基本的には自宅にて学習し、時々通学して先生や仲間と共に学ぶ。

デザインの勉強がしたく、運良く少し貯金も溜まっていたし、しばらくは海外に出れそうにもないし。またひとつ、新たな挑戦。


25歳にもなって(という物差しが、相対的で言っても仕方のない枕詞とは承知しつつ)、私はまだ自分が生業としたい事柄が未だはっきりとわからない。

18歳の頃の私や、23歳頃の私が見れば、まだぶらぶらしているの?とでも言いそうであるが、30歳や50歳の頃にはきっと、「そういえば20代は焦っていたわね」とでも言いながら微笑んでくれると思いながら、模索を続けている。

まだ、人生を語らず。


最近ようやく全ての日々は連続的に存在していて、良い日も悪い日もあること、そしてその中で何を選択するかの連続である、ということをやっと腹で理解した。


義務教育時代に、どっぷりと浸かってしまった「洗脳」の価値観から、どうにか逃れたくて、本能レベルにまで染み込んでしまったその価値観が脊髄反射的に表出する度にいちいち戦ってきた。

ようやくようやく、自分が好きであることに一生懸命でいていいのだと、脊髄反射する中高生時代の制服を着た自分を抱きしめ、卒業できた気持ち。

制服を着た私は、それはそれで一生懸命だった。新自由主義的な、強者の論理の上に堂々とたち、与えられた目標を澄んだ目で見つめ、与えられた勉強とクラブ活動をこなす。

それを目指す純粋な気持ちも努力も、嘘ではなかった。けれども。


そのときの頑張りを覆すようで、よくわからない最近の6-7年間だった。浮かばれない、はっきりしない、自分がわからない日々。


制服をきた私が頑張っていた分だけ今苦しめられているような気持ちになり、ああ、もう少し、与えられたものを掌に載せたときの戸惑いや、校舎からふと外を眺めて、道路を走る車にさえ自由さを見出し「いいなあ」とため息をついていた気持ちを、もう少しだけ正当化する瞬間を持てていたならなあ、など。


孤独な戦いの途中、ふと昔の自分が顔を出したり、恥ずかしくて消え去りたい気持ちになりながら、それでも前よりも確かに、どちらが好きか、ちゃんと選べるようになってきたと感じる日々。

また、選択に失敗しても、次があるさと構えられるようになった日々。

これが私の最近の状態で、まだまだ道半ばだけれど、確実に前より自分を肯定できている。


そんなことを、大学の授業予定を組み立てながら、ぼんやりと自覚した春のはじめの暖かな午後。


そしてまた、人生は続く。



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