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【適応障害回顧録】8冊目の日記③ 次の目標を探しはじめた頃の記録

~トップの写真は2019年の7月頃に撮影した旭川駅の南東、忠別川の川沿いです。私は闘病中、よくここを散歩していましたが今は数年の時を経て旭川北彩都ガーデンとして、北海道のガーデナーとタイアップして公園のように環境整備されています。この日記の話とは少しズレますが、自分が歩いていた川沿いに花が咲いているというなんとも不思議な体験をしたのです。北海道にお住まいの方は是非、訪れてみてください。~

8冊目の日記、エピソード③次の目標を探しはじめた頃の記録

~転院先の主治医に恵まれ、新たな闘病生活をスタートした私。「適応障害、うつ病を治すため、東京へ妻と戻る」この1つを目標に走り続けた私は慌ただしく、北海道旭川に比べ早いスピードで過ぎていく東京の時間や道が狭い、大きい騒音といった環境ストレスを感じはじめる。ただ、このあたりから「東京へ戻る」という決意ともいえる目標を達成し、次の目標がぽっかり空いたのだった。果たして復職できるほど休職期間が満了するまでに回復するのか?そんなことも考える以前に、日常生活もままならない状況を自覚しつつも、ゆったりと20代の若者が東京の平日の日中を過ごしているという当時では奇妙な生活を過ごしていたのだった。~

3月11日(記録少き1日)

7時起床、8時朝食

午後 昼食、服薬

20時夕食、服薬

23時就寝

3月12日(まず、日常生活をおくれることが目標)

8時起床 朝食、服薬

この日は北海道で“先生“を紹介してくれ、自分自身に価値を感じなかった当時の私に再び光を当ててくれた佐藤ご夫妻の娘さんと都内で昼食を共にすることになっていた。

佐藤ご夫妻の娘様と合流し昼食を一緒に過ごす。
人の縁というのは、わからないものである。ご両親への感謝の気持ちを伝えることができた。旭川で佐藤ご夫妻と出会うまで、私は廃人に近かった。よく、ここまで、日常生活は支障がありつつもなんとか日々を過ごせるレベルまでたどり着いたと思えたのだった。

夕方、自宅に戻り、家の近くの喫茶店へ行く。

20時 夕食、服薬。

24時就寝

佐藤ご夫妻の娘さんと食事をするために、少し遠出をしたのだが、疲れてしまったようで寝る時にバテてしまった。だが、手足のしびれが発生するもすぐに眠ることができた。


3月13日(良いカウンセラーは”鏡”のような人)

24時就寝、4時中途覚醒、7時起床
昨日、寝る前に手足の痺れまでは出てこなかったが、疲れが残り火のように残っている。

8時頃、服薬。

今日の寝起きの際に自覚した疲れというか、違和感は本社で働いてた頃に長時間労働を連日、強いられていた時のような感覚であった。

午前中は先日の主治医の診察に関して、記録を作成していた。
文章を書いてみるが誤字脱字が多い。残念だが、まだ職場復帰には早いことを自覚した。

昼食をとり、午後EAPのカウンセラーのカウンセリングを受けに向かった。

面談記録

EAPのカウンセラー 「症状はどうですか?」
私 「身体症状は緩和されたがなかなかしぶとい。」
EAPのカウンセラー 「病院や先生はどうでしたか?」
私 「診察記録を持ってきたから読んでもらえればわかる。」
EAPのカウンセラー 「漢方薬が追加された以外、処方薬の変更はなしですね。」
私 「処方された漢方薬の二種併用はフラッシュバックに効くらしい。神田橋メソッドらしい。知らなかった。他の処方薬は変わらない。パキシルの代わりにリフレックスあたり処方されると思っていたが。転院によって、大幅に処方薬を修正しないところが信頼できた。」
EAPのカウンセラー 「はっきり物事を言う先生ですから相性が合えばいいなと思っていました。」
私 「私もはっきり言うほうだからお互い意思疎通がしやすい。とても良い先生を紹介頂いたと思っています。感謝しています。ただ、私が今はお口にチャックしていることをズバズバ聞いてきたから正直、びっくりしたけど。」
EAPのカウンセラー 「まぁ、先生らしいというか、以前、同じ医療機関で働いていましたがそういう方です。それと、旭川支店に荷物整理に行かれたと言っていたので心配でしたが。」
私 「結局、直属の課長は私が旭川にいるのかさえ、知らなかった。支店長は北海道支社の人事から何度か情報を定期的に得ていたようであるが、私の病状はほとんど知らされていなかった。だから、最後に支店長と本気で話をした時は相当疲れた。まぁ わかってもらえたみたいだから旭川でのケリはついたと思う。疲れたといえば、本社の人事部担当者と揉めたことか。」
EAPのカウンセラー 「なにかされたんですか?」
私 「休職発令日がいつになるかといった認識の違いでしょうか。人事部にいくら話をしても無駄だと思ったので、社会保険労務士の確認を入れた後でコンプライアンス違反として、法務部に通報した。結局、人事課長名で弁護士確認が不十分であったといった趣旨の文書をもらうことになった。思ったより、人事部は雑だ。他にもいろいろあるが、療養に専念して、本社に戻る。だから今は何も言わない。」
EAPのカウンセラー 「他にもなにかあるんですか?」
私 「今は何を言っても、休職者には口なし。謹んで療養する。」
EAPのカウンセラー 「あまり無理しないでくださいね。」
私 「もう遅い感は否めないが。」
EAPのカウンセラー 「私さんが勤務先に戻ろうと考える目的はなんですか?」
私 「なんでしょう。正社員で、具合が悪いから休職している。具合が良くなったら復職する。それだけです。」
EAPのカウンセラー 「わかりました。それ一筋ということですか?」
私 「今はそう思う。ただ、もはや、問題児だろうし戻った後でどうなるかはわからない。」
EAPのカウンセラー 「そういえば、なにかご相談があると伺っていましたが。」
私 「旭川と東京で時計が違って、特に朝の時間の使い方について悩んでいる。旭川は北緯四十二度だから、朝七時スタート、夕方十六時に日が落ちる。規則正しい生活が送れた。一方、東京は朝九時スタート、夜は二十三時まで。朝、散歩しようと思っても通勤で駅に向かう行列に巻き込まれるし、本を読もうと思うと、わざわざ図書館まで行く気もなくなってくるし。生活リズムを作ることが難しい。」
EAPのカウンセラー「まだ、戻られて一ヶ月経ってないのでゆっくりやっていけばいいと思います。だんだん図書館にいる時間が増えていけばいいですね。もちろん、土日は休んでくださいね。」
私 「土日休むか、考えたことがなかった。今まで、相当療養期間を頂いているが、土日土日土日日ではなく、休みがない感覚で生きていた。確かに、メリハリをつけるべきかもしれない。改めていきたい。あと、生活記録表について、主治医にも記入するよう言われた。重複するので医院から指示されたフォーマットに統一したいがよいか。通院ごとに、通院報告とともにPDFデータで送信する。」
EAPのカウンセラー 「それで大丈夫ですよ。」
私 「助かります」


カウンセリングに行ったもののあんまり意味のない気がした。なぜかと言うと報告で終わるからだ。このカウンセリングは何か自分に戻ってくるものがない。

夕方、職場の同期と会った。元気そうであった。

【今、思うこと】
職場復帰をして働き続けてもう数年経つ。

自分が精神疾患で休職していたという頃の記憶がだんだん薄れてきていている。だが、周りを見てみると自分の周囲の状況はだいぶ変わってしまった。

新卒採用で超大手企業に入社したものの私は思ってもいなかったような勤務先との別れ方をした。精神疾患というのは人を孤独にする。本人と周囲との関係性をガラリと変えてしまう代物なのだ。

今、一つ願いが叶うのであれば同期に会いたい。

3月14日(砂時計の砂は降り注ぐ)

朝9時起床、体調が悪い。

11時から14時ぐらいまで寝る。寝たら回復してきた。ただし、一時的にというか一過性のものである気がする。左脳が熱く、視床下部あたりが重い。両耳の耳鳴りがすごい。特に左耳は完全に詰まった感じがして、立っていられなかった。

15時から16時外に出てみるがちょっと疲れているのか、また症状が出てくる。夕方、妻と家の近くの喫茶店へ行く。自動車保険の更新手続きなど自分だけではうまくできないことに関して妻に説明し一緒に手伝ってもらった。この方が妻も確認できるし、無理に自分だけで手続き関係のことをするのはやめようと思った。

妻と話をしていた時、ふと旭川でたまたま出会った金井さんが現れて、「一緒に頑張ろう」と言われる声が聞こえた。フラッシュバックなのか、厳格なのか・・・

よく分からないが、ポジティブな症状というものもあるようだ。気分が上がった。金井さんは元気なのかと思って電話をしてみる。電話は繋がったが以前とは様子が変わっていた。金井さんは誰とも会わないようにしたらしい。

一体どうしたのかと聞いてみると、私たちが訪れた後に、金井さんのことだから色々と他の人とも話していたようだ。その中の一人との関係が原因でまた、人が信じられなくなったらしい。

帯状疱疹ができて内科に通っているとのことだった。 病院通いは老人には年寄りには似合うが若者には向かないから早く病気を治せと言われる。

砂時計の砂は降り注ぐ。明日は寝て起きると今になり今はあっという間に過去になる。
その日は24時に就寝した。


3月15日(弱気な”先生”)

寝る前に不定愁訴が強く出てしまい、3時間ほど寝た。結果、夜、寝付けず明け方の3時頃に寝た。5時間ほどしか眠れていないが朝の体調は良かった。

前日の行動による負荷は今のわたしの状態ではまだ行動過剰なのかもしれない。

11時から夕方まで図書館行くが、夕方疲れて寝てしまう。

19時 夕食、服薬

夕食後、家の近くの喫茶店に行く。

本日の昼、”先生”からメールをいただく。最近、”先生”の体調が心配である。先生は「年だから」と弱音を吐くようになった。あの時、私を叱ってくれた”先生”らしくない。

3月16日(退職した先輩に自分の先を相談する)

8時半に起きる。夢の中身が最悪だった。母と妻をよくわからないが怒鳴っていた夢であった。公園で子供達がテニスをしているのだが、妻が飛んできたボールをラケットで打ち返す。でお、私はまだ飛んできたボールをキャッチして、他人の子供を叱るのだ。支離滅裂な夢だ。

午前中は少し、勉強をしてみた。

12時 昼食、服薬

14時から16時まで寝る。

夕方、本社を退職した会社の先輩と会った。2年ぶりの再会で、私は先輩に次のことを相談した。

本社に残るか?前に進むのか?

先輩からは「復職後、やりたい仕事ができるかわからない。旭川支店から本社へ強行突破で戻ったのであれば、波風立たない部署に配属させられるだろう。つまり、かつて所属していた部署とは限らない」という話を頂く。

私もタイミングを見計らい、本社管轄下のどこかの事業所へ異動になる気がした。本社の対応としては、一旦は本社という話になるだろう。だが、一回、精神疾患を発症し既往歴のある社員である。加えて、やむを得なかったが相当、人事部と揉めて東京へ戻る切符を手にした。人事部からは退職するまで、徹底的にマークされるだろう。

本社に戻るなら、あらゆる可能性に目を向けたい。

ふと、将来、旭川へ戻りたいと思ったのだった。
今の会社に勤めているのであれば不可能だが・・・

3月17日(祖母の言葉「今の人は恵まれている」)

朝8時起床、服薬

新聞を読んだ後、二度寝してしまった。起きて妻と二人でどこかに行こうと思ったが、動くと夕方から不調が出てきてしまう。体調を考えてやめた。

家の近くの喫茶店で妻と昼食を食べる。美味しかったし、喫茶店の奥さんの機嫌がよい。
夕方、図書館に行く。その後、実家の近くに住んでいる祖母とおばさんと夕食をとった。

祖母は珍しく、第二次世界大戦中の空襲の話をしてきた。祖母は天下の江戸っ子である。
妹の子供を子供を背負って、深川から砂町まで逃げたという話を聞いた。今の時代は恵まれていると言っていた。つくづくそう思う。

家に帰ると眠い。やはり、文章を書くことは疲れる。
明日、主治医が変わってから2度目の診察である。


3月18日(旭川での療養生活は視点を変えると、最高の環境だった。)

朝8時起床、朝食、服薬

午前中、資格試験の勉強をしてみる。セパゾンが効かないうちに勉強始めたからか、前日、祖母と食事をしたが、祖母は元気で80歳を超えているが、脂っこいものも平気で食べる。
むしろ、私は胃がもたれ、気持ちが悪い。

10時頃、妻に自動車保険の関係の書類の記入を頼まれるが、やはり頭がぼーっとする。

11時半 主治医の診察のために新宿へ向かった。

診察記録

主治医「どうですか?」
私 「十四日(金)は一日、調子が良くなかった。朝から強い耳鳴りと頭がもわもわした症状が強く、午後十五時くらいまで何もできなかった。」
主治医「なんでそうなったかとか理由はわかる?」
私 「前日の十三日(木)に本社へ行った。」
主治医「ああ、それね。」
私 「本社ではまだ私を気にかけてくれている方がいるので 十分ほど会った。一階の喫茶店で採用活動を行っていたので ちょっと、やりきれない感じはした。その後、これが目的であったが、近くの喫茶店に移動して、私の同期で転勤する者がいるので餞別を渡した。」
主治医「なるほどね。でも、勤務先へのマイナスイメージが払拭されるまで、産業医面談とかあるのかもしれないけど、無理していかないほうがいいわよ。」
私 「勤務先へのマイナスイメージはない。産業医面談は二十日にあるので行く。本社所属となり、労働安全衛生法上、私が勤務する事業所である本社の産業医と初めて会える。今までは人道的に面談して頂いてもらっていたようなものだから。診断書の提出の度に、産業医面談でなかったとしても、診断書を直接手渡しに行こうと考えている。戻る場所を、いわば、巣を思い出せなくなると、帰るにも帰れなくなる。」
主治医「わかったわ。まぁ、産業医の先生にはよろしく言っておいて。」
私 「承知した。」
主治医「でも、十四日(金)は昼間寝て、持ち直したからいいんじゃない?生活リズムが崩れたわけでもないしね。」
私 「やっぱり、まだ、東京に慣れないのか疲れると寝てしまう。例えば、十五日(土)は午後、図書館に行ったが、帰ってきて二時間位寝た。症状が出ないように予防的にしているけども旭川にいた時は日中、二時間も寝なかったので。」
主治医「まぁ、慣れるのに慌てなくていいわよ、ゆっくり行きましょう。毎日、同じ負荷をかけるのが理想的ね。」
私 「承知した。」
主治医「薬はどう?」
私 「個人的には漢方薬だからまだ、効果は体に出ていないとは思う。効果があったとしたらプラセボ効果だろう。ただ、家内から見ると、もの思いにふける時間が減ったというか、話しかけても聞こえてないことが減った気がするとは言われた。客観的に効いている感じがするということは効果があるのだと思う。」
主治医「わかりました。また一週間後。」
私 「今週からパキシルの減薬に挑戦したいが。」
主治医「もう少し経過を見させて。」
私 「承知した。」


処方

毎食後
セパソン1mg、トランコロン7.5mg、ビオフェルミン錠剤
桂枝加芍薬湯、四物湯
   夕食後
パキシルCR37.5mg


通院後、図書館に行こうと思っていたが、通院で疲れたので図書館には行くのをやめた。

17時から20時までは家の近くの喫茶店にいた。

東京に帰ってきてからというもの、旭川とは違い公園や旭川駅の周辺の川沿いを散歩するといったことができなくなってしまった。

今、思えば見本林を散歩するといったことはとても贅沢だったのかもしれない。だから、東京に帰ってきてからはあまり家の外をうろうろするということはなく、こういった喫茶店で文章を書くということに時間を割くようになったのだった。