見出し画像

自分の意見をいれない。

 僕はフツーの子だった。小学生の頃から、一部の先生や友だち以外には、あんまり記憶に残らない目立たない子だったと思う。

 勉強もまずまずだし、運動も中か中の下。引越しで転校が多かったゆえに、それなりにいじめられないコツみたいなものは身につけていった気がするけど、そういう処世も含めていわゆるフツーの子だったように思う。(フツーとは何か?は常日頃考えてるけど、ここでは置いとく)

 その記憶のせいか、僕は学生時代の自分がとても無気力な生き方をしていたように思っていた。その最たる時期が高校生の頃で、そう思う理由は、あの頃の記憶がほぼないからだ。

 だけど、それは間違いかもしれない。と、最近思い始めている。

 あの頃の僕は、ただシンプルに自分の意見を持たないでいただけで、無気力に生きていたわけではない。ことさら伝えられるエピソードこそ何もないけれど、あの頃の僕は僕で、ただただ世界を受け入れながら生きていた。意識下にあるそれらの蓄積で僕の内側はカタチづくられている。

 まわりにはしっかり自分の意見を言えるやつがいて、そういう子たちは制服の細部や髪型に個性を出してみたりと、明らかに目立つ存在だった。いまフッと記憶が蘇ったけれど、当時、全校集会の場で、学校の指定カバンを自由にしよう!と訴える生徒会長がいた。朝礼台の上、太陽の下、みんなの気持ちを代弁するかのように熱く語る彼の姿はとても眩しくて、凄いなあと見ていたけれど、正直、僕は鞄も制服も決まっている方が楽だったし、何よりそんなにわるくないと思っていた。かと言って、変われば変わったでまあいいやとも。

 あのとき朝礼台の上に立っていた彼と、それを遠くから眺めていた僕との違いは明らかに《主張の有無》だった。しかしそれはイコール僕が無気力だったわけではない。僕はただ目の前の世界のすべてを息を吸うようにインストールしていたのだ。そんな僕のことを、いまなら「わるくないぞ」と言ってやれる。

 お笑い芸人さんで活躍されている人の多くが、学生時代はとても暗かったとか、目立たなかったなんていう話をよく聞くけれど、それはその間、ただただひたすら世界の事象をインプットしていたからじゃないか。そこに対して拙速に自分を編み込もうとせず、ただそういうものなのだと受け入れてきたからこそ、来るべき時にその上に立った表現ができる。これはとても重要なことのように思う。そうやって世界を容れる時間が長いほど、寛容さや、おおらかさをベースとした個性を持てるんじゃないか。

✳︎

 そもそもなんでこんな話をしたかというと、Re:Schoolのメンバーでカメラマンのアシスタントをしている20代の男子がいて(ひょっとしたら今年30になったかも)、彼の書く文章や、彼が話すラジオ(Re:Schoolの課題)の言葉が僕はとても好きで、その「好き」はどこからきているんだろう? と考えた時に、ここ数年出会ってきた20代の若者たちのなかで、彼は圧倒的に自分の主張をしないタイプの人だからだと気づいた。

 SNSが発達し、ここまで気軽に発信出来るようになると、そこに個性をつけることが求められるのは必然で、そのせいか、自分らしさを表現することにばかり気を取られてしまっている人が多い。自分らしさは、自分で意図的に生み出せるものではない。にもかかわらずそれを表現しようと思うあまり、ただ受け止めるとか、ただ聞くとか、ただ認めるとか、そういうことが出来ないでいるのではないか。そんな中で彼の言葉はなんだかとても美しく映った。

 誤解を生みそうなので書くけれど、これは決して、我慢して聞けとか、じっと耐えろとか、そういうことを言っているのではない。自分の意見を口にすることや、主張することも当たり前に大切だけれど、それと同じだけ、ただ受け入れることや、黙々とやってみることの大切さもある。自分の意見をバシバシ言うことや、自分を表現、アピールすることよりも、まわりの声や事象を淡々と収めていく箱のような態度の先に、個々の美意識が生まれ、それがその人らしさをつくると、彼をみて思った。

 成果とか効率とかの文字が躍るなか、何から何まで短期的な動きに目を取られてばかりな世の中で、いまは下積みがやりにくい時代なんだなあとつくづく思う。黙っていると「なんで黙っているの?」と迫られるような、そんな圧を感じる社会で、うまく生きていこうと思うほど、自己主張が大事になって、その結果、プライドが高く、自分の意見を言いたがる若者が増えている気がする。また、そういう人ほど、確固たる自分というものが存在することが前提になっていて、そこと現実との相違に悩む。それが一人相撲で終わればまだ良いのだけれど、その矛先はやがて、周りの環境や社会にむけられ、つまりは自分以外の何かのせいにすることなしには生きられらくなる。僕はとにかく、何かのせいにする癖がついた人とは、一緒に仕事ができない。僕がずっと長くお付き合いさせていただいている人たちは、いい意味で自分を持っていない人ばかりだ。自分というものがもしあるならば、それは他者のなかにある。そんなことを肌感で理解しているような人たちしかいない。

 いまでこそ僕にガンガン意見を言ってくれるマネージャーのはっちも、Re:Sに入った当初はとても受け身だった。はっちに対して僕は、とにかく「何時に」「どこに着いて」「どのお店に入って」「何を食べて」「誰にあって」「どんな話をしたか」ただただそのメモを取っていてくれればいいと伝え、彼女はそれを何年もやりきった。いまでこそ、その意味をなんとなくわかってくれていると思うけれど、きっと当時は使うか使わないかわからないメモに、いったい何の意味があるのだろう?と思っただろう。そんな風に、その時、その瞬間には意味がわからないことをやることが大事なのだ。そこに安直に意味を持たせたり、自分の意見を挟まず、やってみることの蓄積が思いがけない未来を連れてきたりする。

 特に僕たち編集者の仕事は、とてもフラットにただ聞くという態度を持つことがとても大事だ。それがあってはじめて、自分の意見の必要性が見えてくる。自分の言いたいことだけを言ったり、聞いているようで結局こちらの話を聞かず、自分が定めた方向に持っていこうとするインタビュアーさんにたまに会うけれど、シンプルに容れ物になる蓄積が足りないのかなと感じる。

ここから先は

526字
この記事のみ ¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?