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インプットは溜めない方がいい。

 一週間の長旅から戻ってきた朝。頑張った胃腸を休めるべくカフェイン控えたいなとカモミールティー飲みながら、今回の旅をぼんやり振り返っている。
 あらためて、僕を編集者たらしめているのは間違いなく旅だなと思う。旅先での出会いや発見をシェアしたいと思う気持ちが、僕の仕事の根っこにあるのは確かだ。書籍やテレビ、ネットからの情報よりも、旅を通した実体験こそが僕を大きく変化させてくれた。

 僕は、もともと旅が嫌いで、とにかく外に出るのが億劫な人だった。そんな僕がいまや旅する編集者と呼ばれるほど、旅好きになったのは、スペシャルな体験と共に、それをシェアする喜びを知ったからだ。いまのようにSNSのない時代、雑誌というかたちでその体験をシェアしたことが、僕の人生を方向付けた。知る喜びと、知らせる喜びが僕の中で一対のものとなった。

 そもそも、体験をシェアせずにはいられないのは、僕の性分だと思っていたけれど、こう考えるとどうだろう。たくさん大根ができたからと、それを売ったり、あげたりするのと同じだと。つまり、生産者にとって大量の収穫を消費できずに腐らせてしまうほど、胸が痛むことはないように、編集者にとっては大量の情報や体験をどこにもシェアできずにいるほど辛いことはない。 

 先日もRe:Schoolのメンバーに「藤本さんの強さは異常なまでのフットワークの軽さと、そこでのインプットを迅速にアウトプットに変えられるスピードだ」と言われて、それに対して僕は「ただの癖のようなもの」と返したんだけれど、上述のように考えれば、決して個人的な能力というより、自然な振る舞いのようにも思う。

 僕のような編集者にとって、現場の濃密な体験を腐らせるというのは=アウトプットできぬまま忘れるということ。

 もちろん旅は、何かを得ることだけでなく、日頃のストレスをのんびりと解放する意味合いもあるから、昔は「今回はなんにもアウトプットしないぞ」なんて心に誓って旅に出てみたこともあるのだけど、旅先と地元との些細な差異にすら感動してしまう僕は、心動いたのにシェアしないでいることの方がよっぽどストレスになってしまって、気が休まらなかった。

 だから
 インプットは溜めない方がいい。
 感動はシェアした方がいい。

 余談だけど、最近、サウナでテレビを見ていたら、映えない写真の方がかえって共感されるとかなんとか、いわゆるスッピン思考とでもいうのか、若い人たちが、もう映える魅せ方や、見栄え良く盛る加工に飽きて、かえってノン加工な地味写真の方が受けているみたいな話をしていて、まったくもって本末転倒というか、中身のない話だなぁと思って眺めていた。

 映える
 映えない

 盛る
 盛らない

 どちらが良いか? と言った話ではなくて、二次的な表現というのは、いつだって現実の感動に近づくのはどちらかを探る結果であって。映える写真に飽きたから映えない写真に共感、というような話ではない。

 とんでもなく美しく美味しい料理がどうにも美味しそうに見えないからと彩度を上げてみたり、目の前の青空の気持ち良さを表現したいからこそ、写真の青を強くしたいと思ったり、なんとか自分が体感した感動をそのままにシェアできないかと足掻く結果だと僕は思っている。

 実際にこの人が心から感動して投稿しているか、ただのいいねオバケかは、投稿見れば大抵感じ取れてしまう。見るべきポイントは本来そこだ。なんだか軽薄な議論に感じてしまう。それこそ、こんな議論に終始するのは、根っこに「感動」がないからじゃないか。アウトプットするのは事象ではなく、心の動きであるほうがいい。その方が見ている人の心も動く。まあ、サウナでぼんやり眺める分にはちょうどいいっちゃあいいんだけど。

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