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正論まつり 終了ーーーっ

秋田と東京と愛知県を飛び回る日々。ようやくゆったり地元でモーニング。いつものように玉子サンドとコーヒーと神戸新聞。

ふと目についた、酒類CM「ごくごく」やめます。という見出し。
アルコール依存症に悩む人の飲酒欲求をあおるからと、テレビCMで喉元をビールなどが通る際に流す「ごくごく」「ぐびぐび」をやめることがわかった、と。

ここまでは、なんともしんどい世の中やなぁ、代理店絡みのクリエイターの皆さん御愁傷様です。くらいの気持ちで読み進めたけれど、

さらに子どもが冷蔵庫にあった酎ハイをジュースと間違って飲んだという指摘から、容器のデザイン変更も必要かもしれないと検討中。

というのを読むに至っては、なんだかもうやりきれない気持ちでいっぱいになった。間違って飲んだ子供のアホさをスルーして、デザインのせいだと主張する親の感覚がわからへんし、そのアホさを横に置いて、真面目に検討するって。そうやって子どもたちの微細な差異を読み取るチカラを奪うことの方が罪やと思うけど、それでもそんな流れになっていくのは、行政も企業もずっと責任をとらなくてよいシステム作りを続けてきたからだ。様々な組織が、こうやって規制を強めるということはイコール責任追及のリスクヘッジに過ぎないということに、もう少し厳しい目を注いだ方がいい。そしてその根本には、そもそも親が我が子の教育責任すらこうやって他人に転嫁していくことに現れている。

東京五輪のエンブレム問題も、東電や国立競技場の問題と同じで結局は誰も責任をとらないから、よーく見ていてほしい。この先どうなるか? といったら、以降はこういう風にしますね的なよくわからない規制がまた一つ増えるだけだ、きっと。

そうやって何か問題がある度に、その解決方法として「規制を強める」ということに逃げるのはもう止めてほしい。そこにぐっと向き合って議論して、つまらないことで、やいのやいの言うなら、言う方にも覚悟が必要な世の中にチェンジしていかなきゃだ。その先にはじめておおらかな社会が待っている。

エンブレム問題については、正直書く気すら失せるけれど、あれもパクリだ、これもパクリだ、と揶揄して楽しむだけならまだしも、そこに無闇な正義感と世直し気分があるのがとてもイライラする。これらのなかに通底しているものは「正論」だ。「正論」をかざすのは責任を取れない狡い大人の常套手段。「正論」ほどリスクが少ない凡庸でダサい意見はない。街頭インタビューでいきなりマイクを向けられた生活者が「正論」を持ち出すのは仕方ないけれど、そんなものをメディアが利用するのは考えの浅さの露呈でしかない。

「パクるのはアカン」それは正論ゆえに、もちろん誰も否定しないけれど、その「正論」で祭りをするのはほんまに恥ずかしい。自身の知識と知恵を結集して問題解決の方法を探るのがデザインの役割だと思う僕は、そこには「正解」のようなものがあると実感しているゆえに、その答えが似てくるのもどこか必然だと思っている。だから、無断使用の問題と、デザインの性みたいなものについて考えることはまったく別物だ。いまの正論祭りは、様々な意思決定の問題や、僕が地方以上の癒着だと感じている代理店まわりのデザイナーさんたちの有り様とか、そういう本質的な問題をうやむやにしていくことに加担している。

だからもう「正論」禁止。祭りおしまい。


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