見出し画像

日本の成立〜古代史考

1.この国の原型

日本人には、他者と折り合いを付けて生きていくDNAが備わっている。

思っていることをはっきり言わない。
感情をあらわにしない。曖昧であり、有耶無耶である。
よく言えば、相手を慮り傷つけないで配慮する。

これらは、日本が出来上がっていく時分の、
生存のための折り合いの鮮烈な記憶だろうと思う。
いろんな背景のヤツがこの島に流れ着いている。
そしてこの島の持つ再生力・自然回復力を自らの傍らとしたいが為、
皆が共存の道を選んだのだ。

そもそもは、六千年前の温暖化による海進により、
半島やサハリンで繫がっていた日本は大陸から離れ、
玄界灘から日本海に滔々と暖流が流れ込み、
その暖流がシベリア寒気団とぶつかって、
日本の脊梁山脈に豪雪をもたらした。

雪は春融け、梅雨が来、秋には台風が来る。
かように四季を通じ、豊かで清らかな水に溢れるようになって、
豊かな森が育まれた。

黒潮流れ込む環境のおかげにより外敵もなく、
疫病さえ到達できない、
清らかで平和で豊かな列島が奇跡的に成立した。

そういう風土と季節感と、そこに成立した自然観、
それが日本文化の基層であることは疑いがない。

その中で自然と関係を結び、時に敬い、時に畏れ、
自分の一部としてそこに身を置き得る、
日本人の基本性質が出来上がった。

2.大陸鳴動〜倭という地域

そうした基層のうえに、大陸の内圧が沸き立ち、
大陸から逃れ、来たるものたちが次々と出てくる。

まず、我々に稲作文化の原点をもたらしたものたちが来た。
日本語、倭語の祖先のような文化をもたらした。
原始神社信仰、鳥居、カゴメの物語も彼らだろう。
大陸で秦という統一国家が成り、多くの難民が発生した。
長江あたりにあった呉・越といった国々の系譜を持つものたちと、
その背後の華南原住民の系譜を持つものたち、
また、その中には河口沿岸の漁民も含まれていたと思う。

彼らは大陸を逃れ、海をわたり、潮の流れに乗って
九州沿岸部、韓半島南岸にかけて定住した。

古書に言う、「倭」という人たちだ。
倭とは日本の旧国名のように言われるが
そうではあるまい。
韓半島南岸から九州沿岸に定着した、海の民だろう。
もちろん日本人の元祖の一部ではある。
が、全てではないはずだ。

その韓半島南岸の、弁という地域は
日本列島にたどり着いたものたちと縁が深いひとたちがいたのか、
韓半島と日本列島をつなぐ大事な架け橋となる。
それらはやがて「伽耶」と呼ばれる地域になる。
加羅という代表的な村落の名前から来たのかも知れない。
「ラ」とはワレラ、クンナラ、ウリナラの「ラ」で
我々とか、国とか、そんなニュアンスではないか。
日本ではカラといえば外国という意味になった。

その弁韓のいくつかの地域の中から、
日本列島に移住してくる貴種が出てくる。

湿潤で稲作に適した土地を目指したのか
あるいは当時半島南岸にて隆盛した製鉄のための
燃料となる木質資源の循環性を目指したのか、
はたまた地域の覇権争いに敗れたためか。
倭という共通の文化によって
あまり軋轢なく融合した場合もあったろう。
辰韓、のちの新羅に近い地域の集団もあったろう。

神話で言うところの
須佐之男命の系譜、旧出雲国につながる
集団もそこにいたのだろうと懸想される。
これが原初の日本政府につながるグループだと思う。
半島南岸から渡ったと思うが、
その出自はツングース系の、濊人の誇りを持つ
グループの末裔ではないか。
物部にもその伝統を垣間見ることができる。

3.クニのはじまり

北九州には倭族の小国家が熟成して行き、
他方でそこから分岐した、
あるいは別系統の渡来集団が地元で融和して
出雲や瀬戸内や東国、北国に小集落、
原初地域集落が競いつつ熟成して行ったことは
間違いない。
伽耶から入れる鉄の利権、水の利権、
祈祷、信仰の利権確保は、互いを消耗させたはずである。

が。もともとその背負って来た民族としての記憶から、
強奪・制圧・殲滅よりも、折り合い、落としどころを
みつける意識を持った小集落が多かったんだと思う。

のちの後世に神武磐余彦あるいは崇神御真城入彦と呼ばれる、
伝説の立役者となる尊い立場のものが、
地域共存融和のために担ぎ出され、
共存の道を進み出したのだろう。

4.英雄の時代

我が国はその後、4世紀後半、
大王の跡継ぎ係争があり、一人の英雄が出現する。
記紀でいう応神天皇だ。
記紀では新羅征伐と神功皇后、そして
武内宿禰の関係が色濃く演出されている。

本名は「ホムタワケ」という。
ワケとは別という姓(カバネ)であり
地方領主の意味。
ホムタ(誉田)の地名はよくわからないけど
母親である息長帯姫命
(オキナガタラシヒメ:神功皇后)の
根拠地である息長(北近江)を背負っていることと、
気比神宮と名前を交換した話、
ホムタワケの子孫の多くが
北陸在の領主になっていることから、
北陸・東国地域を権力の背景に持つ大王であろう。

この大王が共立された背景は、それまでの西国各地(吉備・出雲等)が確保していた大陸への海峡渡航ルートが、九州の新興勢力に押され、脆弱化したことにある。

そこで、対馬・壱岐の都会ルートとは別の、
恐らくは宗像・沖の島と関係を再構築し得る
武内宿禰と協同体制が敷ける人材としての
存在が必要だったんだと思う。

彼が蘇我氏に取り込まれたのか
逆に蘇我氏を復活させたのか、利用したのか
はたまた後世の蘇我氏が利用したのかは
定かではないが、
ここに蘇我氏の系譜が歴史に現れる。
蘇る我らというドラマチックな氏名は
ソガ、スガ(須我)という音で纏われ、
奇しくもスサノオと櫛稲田姫の新居と同名であり
スサノオの子孫を暗に称したのではないかと懸想する。

当時に蘇我と呼ばれていたのかどうかはわからないが
それが武内宿禰という蘇我氏の象徴ともいうべき
人物と関わる伝承が各地に膨大に残っており、
ホムタワケの背景を表出させている。

応神は今日では八幡宮の祭神にして戦神である。
記紀では彼から百済の事績を匂わせるが、
これはのちの亡命百済王族による改竄ではないか。
伽耶の貴種ではないかと思う。

5.中央集権と地方分散の揺らぎのなかで

河内に巨大な陵墓を持つこの系統は、
以降ワカタケルの治世まで続く。

ワカタケルは日本書紀では猛烈な気性を帯びた
暴君の一面を持った英雄児として描かれている。
それまで地方の豪族・領主との合意形成の元に
緩やかな同盟の盟主のような支配構造を作ってきたこの国に於いて
初めて絶対君主的な構造に君臨しようとした大王だ。

結果地方領主はそのあり方を良しとしなかったんだろう。
ワカタケル歿後、数十年は大王を懐けない混乱期を迎える。
書紀では一統を装うが、この間、断絶していたと思う。

ワカタケルの絶対君主志向を否定し、
日本各地の氏族連合体のあり方を必要とした我が国は、
6世紀初頭に近江湖西地方に根拠地を持つ
オホド王を擁立する。
いまにいう蘇我の系譜、
かつてのホムタワケの系譜の王である。
ホムタワケ以来、いや古くは大歳の築いた三輪王朝以来、
ヤマト政権は、尾張や物部、毛野と言った
北陸や東海や関東を背景とした氏族を力の源泉として
その命脈として成立してきた。
それを活かしてきたのが、
葛城・加茂・出雲を背景に持つ、
いわゆる蘇我と後世呼ばれる大王家だった。

末子相続を基本としてきた高麗系の王家の習慣は、
東国各地氏族との複雑な婚姻関係でいよいよ薄れ、
このころには世継ぎを生む王女側の氏族の発言力が
増大したと思われる。

そのオホドの息子、シキシマ王、世に言う欽明天皇。
俺は彼と蘇我馬子なる人物は
同一人物か、その息子ではないだろうかと思う。

シキシマ(斯帰斯麻)とは敷島のことであり、
まさにヤマトのまほろばの中枢、
磯城(しき)の国を指す。
彼が嶋ノ庄に皇宮を築いた。
その息子と言われる蝦夷とか、その息子イルカとかの
名前が本当にあったかどうかは知らないが、
敷島大王(天国排開広庭天皇)の次の後継者こそ
隋書に言うアメノタラシヒコ大王であろう。

彼とその父の代からそれまでの豪族氏族連合国家から
中央集権律令国家への改革が始まった。
渡来人の知識と技術をどんどん吸収していく中で、
そこに大陸半島の緊迫した国際情勢が反映され、
さながら権力の代理闘争のような世情のなか、
おそらく相当なリーダーシップを発揮して、
大陸の国家システムを模倣しながら、
我が国に採用できる国家の仕組みを模索したに違いない。
後世、聖徳太子に仮託される人物だろう。

6.日本成立に隠された内密

そうして半島での大事なパートナーであった
百済が滅亡し、百済の意志が揺籃期の日本を飲み込み、
かの政変へと繫がっていく。
外圧から王家の力関係が変化したのだ。

中国に唐という強大な国家が興り、
それまで強力な武力を誇っていた高句麗と、
半島文化の中枢であった百済の二つの国家が滅亡、
多くの亡命貴族が日本列島にやってくる。

滅亡前に、伽耶諸国は百済と良好な関係だったが
新羅に多くを簒奪されたらしく、
日本の利権もそのころ多く失われ、
利害関係が百済と一致していた節がある。

そんなこともあってか、
百済と歩調を合わせて韓半島にて
利権を争ったが、
時勢を読みきれずあえなく撃沈したのだろう。

そうした情勢の中で、多くの百済の貴種、王族が
大和政権の中枢近くに暗躍していた。

その中に、いまで言うところの
天智、中臣鎌足ら百済人もいて、
韓半島での利権復活を題目に
他の王族を少しずつ排除していく。

そしてかれらこそ、記紀編纂の張本人であり、
いまの天皇家に繋がっていく系譜だろう。
天智という天皇がいたかどうかは
よくわからない。
百済をくだらと呼ぶ呼称も関係していよう。
普通に言えば高麗言葉ならペグジェだ。
くだらとは言わない。
クダラとはクんナラであり、
偉大なる我が国という意味だろう。

おそらくそれに対抗したと思われる
須佐男の系譜を持つ天武大海人ならびに
その子孫ですら、簒奪されたとは感じないほど
彼らは大和政権のために尽くしたとみえていたんだろう。

その、百済の後継者たる藤原不比等が天才たる所以は、
それまでの多様な日本の政権の歴史を、
一切をひっくるめ、一つも排除せず、
万世一系として編み直したところにある。

もともと当時までは本当に多様だったからこそ、
各家々、氏族が参加する歴史として編纂し直し、
皇統の一部をなすことで納得して行ったんだと思う。
これがこの国の歴史の秘密であると、
おれは確信している。

7.日本の成立がもたらしたもの

そこは日本人としての真理があったからかもしれない。
多様な出自を尊重しあい、
表面的にはコトを荒立てず、王家の皇統さえ
全てを呑み込み、一統であったとするかたちは、
いまの日本の社会の原型を垣間見る思いがする。

皇族で起こったこれらと同じような配慮と統制が、
日本中の各地域の村々でも起こっただろうと推察される。

俺がこう仮説を立てる理由は二つ。
我が国には言霊信仰があり、
1つは文章ごとに切り取れば
その文章自体は嘘でないような
書き方をしたのではないかと言うこと。
ただ書物全体で見ると
まったく別の論旨として皇統の一統性、
正当性と各氏族の歴史性を
位置づけていることが目的となっている。

もう1つは、本名でその人に罪を着せることは
しないのではないかということ。
その意味で書記で悪逆の限りを尽くす
蘇我稲目・馬子・蝦夷・入鹿という人物が
本当にいたとは思えない。
むしろ思いっきり褒めそやして
敬っている聖徳太子こそ、そのことで
霊を慰めているようにしか思えないのだ。


8.地域の自立

良くも悪くも日本の地域支配構造は、
もののふと呼ばれる地方赴任貴族が
武力を持って地域の調整役として台頭するまで
上記の国政府の中央集権的な、リアリティの脆弱な
支配構造を呈して来た。

もののふが出現して以来、400年以上、
地域のありようは揺籃しつづけた。
家という立て系統の血族概念の正当性を論拠として、
兄弟親類が互いに家の利を増幅しようとし、
地域社会の倫理は崩壊していく。
ついに国土全体が無法地帯と化し、
中世末、地域から自主自立の地域システムと
流通経済が生まれてくる。

あるところは有力な領主を助けるかたちで、
あるところでは複数名の代表による合議で、
地域自治、地域経営意識が育まれて行った。

ここが日本の社会の、民のDNAの
面白きところとなっていく。
折り合い、融通、という土台の上に、
生き生きとした、瑞々しいリアリズムを伴う
自主独立、創造的な地域社会の規範が築かれた。

美意識、生活様式、村落形状、生活道路、
屋敷の区割り、田畑のかたち、
神社のあり方、寺の配置など、今日の日本の
各地域の国土の集落単位の基礎がこの頃できあがった。

中央集権、権威主義ではなく、
地域の自立意識が育った背景には、
冒頭でみてきたような、多様な出自を背景にもつ
多様な地域の形成の歴史があったからにほかならない。

基本地域は自立し、外圧などの危機に際して
中央に纏まる。この繰り返しの歴史である。
冒頭原大和政権の成立も、地域間競争だけが
成立理由ではなく、混沌と統一、膨張の脅威の
外圧があったからだろう。

こうした歴史を踏まえ、
そしてまた我が日本の国民性に鑑みれば、
これからの国づくりのあり方が見えてくる。

地域の自立と創造の仕組みを持続させ得る
国家のあり方である。このテーマは今日まで続いている。