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「こうあるべき」を捨てて「問い」と出会うー僕の鬱病療養日記-12-

※このnoteは、小中高大と全てで不登校を経験。その後、教育系のNPOで活動するなどしていたが、2019年3月末頃より、鬱病を再発した僕の療養生活を記録しているものです。
 とりとめもない療養生活の日常の記録とともに、この期間を利用して読んでいる本や、見た映画など、芸術と思われるものについての紹介をしています。
 僕と同じように鬱や引きこもりで悩んでいる方、またその身近にいる方々、もしくはそこまでではなくとも、心が疲れているなという方々に読んでいただければ幸いです。


日常

2019年12月4日(火)朝8:30頃

今日で12回目の更新。最初はお試しにと始めてみたことだったので、継続して書き記すことが出来て嬉しい。こうして書いていることに、どれほどの意味があるのだろうと思うこともあるけれど、きっと鬱病から回復して、元気になったとき、改めて振り返るためのものになるだろう。

この日記は、いつも朝に書くことにしている。文章を書き始めるまでは、一切何を書くかを決めていないため、毎回少し緊張しながら、パソコンに向かっている。今日は書けるんだろうか。自分の中からどんな言葉が出てくるのだろうか。そんな不安も少しありつつ、恐る恐る最初の一文を書き始める。そうして書きながら次に出てくる言葉を探し、流れのままに書いている。

このやり方が自分には合っているらしい。自分の頭でしっかりと考えて文章を書こうと思ったら、4000字を書くのにきっと何時間もかかる。けれど、この日記では1時間もかからない。それほどに自然と出てきた言葉を書き記している。いっさいの加工をしない、完全天然物の文章。と言いつつ、外に表現する以上、必ずどこかでフィルターがかかって、ちょっとは飾った文章になってしまっているとは思うけれど。

昨日は久しぶりに人と会い長時間話しをしてきた。鬱の状態になってからも、もともとの知り合いに限って、人と会うことは出来ている。鬱になりたての当初は、人に会うのもかなりの体力を必要としていたけれど、最近はだんだんと普通に話すことが出来るようになってきた。1,2週間に一度ほど誰かに会っていると、「なんだ、普通に喋れているじゃないか」と徐々に回復してきつつある自分に気づく。ただし、そこで調子に乗ってはいけない。話し終えた後、一人になるととたんに疲労感に襲われてしまう。昨日も3時間ほどカフェで話した後は、心が疲れてしまい、家に帰ってからも、なかなか休まらなかった。

今日は昨日の反動からなのか、疲れが残っているのか。朝の現時点で、いつもより少し心がざわついているような感覚がある。身体が緊張しているようで、力が入っているのがわかる。明日もまた人に会うことにしているので、今日はなるべくゆっくりと過ごすことができればいいと思っているのだけれど、こうしたときいつも僕は、ついつい何かをやろうとしてしまうので、きっとまたうまく休めないんだろう。それでいいや。僕はそういう人だ。だんだんと分かってきた。

毎日毎日書けば書くほど、言葉にするのが早くなってきている気がする。けれど、毎回同じようなことを言っているような気もする。幸いにも毎回読んでくれて、スキを押してくれる人たちがいる。それはとてもありがたいことだなと思う。ただし、変に「スキがほしい」みたいな承認欲求を満たすために使いたいわけでは無いので、いつも夜に投稿してから次の朝書き始めるまでnoteは開かないようにしている。それでも読んでもらえるのはありがたい。読まれたいのに、そのために書きたいわけじゃないというなんだかよくわからない矛盾した気持ちを抱えているけれど、そんなもんだと思う人間は。というか僕は。なんでも一般化するのは良くないな。

とりとめもない文章。とりとめもない日常。毎日毎日決まった予定はなく、自分がなるべく心地よく過ごせるように生活をしながらその様子とありのままの気持ちを書き記す。
自分の生活そのものを文章にすることで、現実を再構成しているような感覚もある。言葉で描かれているこちらの世界のほうがより現実を捉えているようだ。細部に注目していくことはきっと僕の世界を豊かにしてくれる。

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読書と映画と、その他芸術と思われるものについて。

三度の飯より本が好きとプロフィールに書いているほどに、毎日している読書と、趣味である映画鑑賞の中から、好きな作品・言葉を紹介するコーナー。ときどきその他芸術と思われるものについても紹介します。

今日は今も読み進めている最中の本、若松英輔さんの著書「詩と出会う詩と生きる」からの言葉を紹介します。

言葉とこころを結びなおす
言葉と人は、どのような関係にあるのか。詩に込められた想いを知ることで、何を得ることができるのか。困ったとき、苦しいとき、悲しいとき──私たちを守ってくれる言葉を携えておくために。文学・哲学・宗教・芸術──あらゆる分野の言葉を「詩」と捉え、身近に感じ、それと共に生きる意味を探す。

ここ最近、詩人の方々が書いた本を何冊か読んでいますが、言葉を紡ぐことを仕事にしている方たちなので、本当にどの本も読みやすく、素敵な言葉にあふれているなと感じます。

鬱病療養日記の6回目でも詩人の方が書いた本を紹介しましたが、今回もまた詩をテーマにした一冊です。まだ読んでいる途中ですが、以下のような言葉がありました。

どう書いたらよいか分からない、と考えるということは、「こう書くべきだ」という方法があって、自分はそれを知らない、そう思い込んでいるからではないか。そして、ある時から問いが変わってきたのです。これから書こうとしている詩に「書くべき」法則、方法などあるだろうか。詩に限りませんが、私たち人生の旅は、答えらしきものに出会ったときよりも、真の問いに巡り会えたとき、始まるのではないでしょうか。(p7)

僕は冒頭の「日常」で、何を書こうかは決めていない。そしてこうして書くことにどれほどの意味があるのかはわからないと言いました。けれど、若松さんのこの言葉を読むと、それでいいんだなと思えます。とにかく書いてみること。こうあるべきという思い込みを一度捨ててみること。そうすることで自由に本来の気持ちを書いていくことが出来る。実際、今のような書き方に変えてからとても書くのが楽しくなったなと思う。

そして、若松さんはこれは書くことだけにとどまらずに、人生にも当てはまることだと述べています。答えではなく、問いに巡り会えたときに人生の旅が始まる、そうであるならば、鬱病で倒れたこの時期は、自分にとって問いに再度巡り合う時期だったということだったのかなと思うようにしたいです。もちろんそのことを受け入れるのは、簡単ではないけれど、最近はようやく少し開き直ってきたというか、僕はこんなふうにしか生きることが出来なかったから、そんな自分なりに、もう一度立ち直っていければいいなと思うようになってきました。

そして、若松さんの言葉には続きがあります。

この本を通じて皆さんと深めていきたいのは「答え」ではなく「問い」です。さらにいえば「答え」を取りいれることに慎重でありたいのです。「答え」のあるところには詩は、現れにくいからです。解答めいた「答え」には警戒しつつ、「問い」を深めること、それが詩と出会い、詩を生きることのように思います。(p7)

すぐには答えは見つからないかもしれないけれど、出会ったこの問いを深めること。そんなふうにこの時期を過ごせればと思います。また、可能であればそれは一人でではなく、この日記を読んでくださっている方々とも一緒に深めていければ、より一層嬉しいなと思います。自分は一人ではないと知っていれば、少しずつ足を踏み出していく勇気が出てくると思うからです。

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ここまで読んでくださりありがとうございました。

はじめましての方ははじめまして。
いつも読んでくださってる方は、ありがとうございます。
お久しぶりの方はお久しぶりです。ちょっとずつ元気になってます。

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