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救急車を呼んだ

家族のために救急車を呼んだ。初体験だ。自分では3回乗っている。が、いずれも過量服薬で自殺を図った時なので、救急搬送されている間および前後の記憶が全くない。救急相談センターに問い合わせ、救急車を呼んだ方がよいと言われた時は、一瞬、頭の中が真っ白になった。

ところが、ここで、苦痛でしかなかった記憶が思いがけず役立った。私は、妻から、私のために救急車を呼んでどんなに大変だったか、散々聞かされていた。「119につながると、最初に『火事ですか? 救急ですか?』って訊かれるのよ」と妻は言い、本当にその通り尋ねられた時、私は、予習してあった事をズバリ教師から質問された学童みたいに気負い込んで「救急です!」と答えていた。その先も、ほぼ妻から聞いていた通りに事が進む事に、私は感動すら覚えた。初めて救急車の内部をジックリ見る事ができ、そうか、あの空間に私は横たえられていたのか……等と思った。妻が言っていた通り、救急隊の人達は、冷静、機敏。そして、何より親切だった。

そうだ、私は、誰のために救急車を呼んだのか、まだ話していなかった。同居している90歳になる母のために呼んだのだ。

同居といっても、私が3度目の自殺未遂を起こした後に「仏の顔も三度まで」と私に愛想をつかした妻に追い出され、2DKのアパートに独り暮らしの母のもとに転がりこんだのだ。つまり、出戻りのパラサイト。母は歩行困難で要支援2がついているが、私が日々世話をしなければならない状態では、全く、ない。

その母が夜8時頃から腹が痛いと言い出しーーこれは母にとっては実にまれなことだーー、その後、ひどい下痢と嘔吐が始まった。これはマズイと、救急相談センターに電話したのが11時過ぎ。それから119して、救急車が着いたのは零時を回っていたが、その時、母はトイレの中だった。

受け入れ先の病院はなかなか決まらなかった。やっと受け入れてもらった先は、実家からはかなり離れた、私の知らない病院だった。

救急外来は思いがけず閑散としていた。いや、こういう所は閑古鳥が鳴いている方がいいのだ。

母が診察している間に、ストレッチャーに括り付けられて全く動かない小柄な中年女性が運ばれて来て、私の目の前の廊下で診察待ちを始めた。当直医が私の母で手一杯なのだろう。

聞くつもりはなくても、救急隊員の方達と後から来られた80過ぎと見えるお父様の会話が耳に入ってくる。

父親によると、娘はパン屋に勤めていて、朝3時に起きて4時には家を出るのだと言う。パン屋の仕事は5時から20時までというから、これはキツそうだ。それなのに、20時に仕事から解放された後、毎晩行きつけの店で飲んで、正体をなくして帰宅するのだそうだ。今夜はヘベレケに酔った状態で自転車に乗ろうとして転倒、救急車搬送となった次第。

父親は、CDのリピートみたいに「飲むなって言ったって、聞かねぇんだよ」「店の常連に飲まされちまうんだ」「飲ませる店が悪ぃんだよ」と言い続ける。

お父さん、誰もーー少なくとも、私はーーあなたが悪いなんて言ってないから、クダクダ弁解しなさんなと思っていると、歳のいった、ちょっと強面の女性看護士が「46歳になったら、もう自己責任だよ」と言い放ち、すると、父親が「半分は店が悪い、半分は本人が悪い」と意見を修正した。

私は、早朝から夜まで働き、そのあと、自分を失うほど酒を煽る46歳女性の人生はどういうものだろうと、ふと、興味を覚えた。その娘にメンツを潰されていると感じながら、なす術もなくいる父親の人生は、どんな感じだろうとも思った。

娘さんは意識を取り戻し、私が母の診断結果を聞かされる前に、帰って行った。

病院は様々な人生模様が交錯する場なんだ……と、今さらながら思った。病院を舞台にした映画やTVドラマは、実は「グランドホテル」型物語で、だから、廃れないのか……等と、あらぬ事を考えた。

さて、母の診断だが、CT 画像を見せながら医師が言うには、突発性の腸炎であり、原因は細菌感染と虚血性腸炎の2通り考えられるが、内視鏡等の検査も加えないと分からないとの事。その場で入院が決まった。

その後、病院のアリバイ作りみたいな説明を聞かされ、私が共犯者になるための同意書に署名させられ、病院を出たのは3時過ぎだった。

明日は入院手続きと見舞いに来なければならない。私は、疲れ果てていた。

《完》








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