猫と愛について
猫を飼って4ヶ月が経った。
ハムスターより大きなペットを飼うのが人生で初だったので、「ちゃんと愛せるだろうか」「邪魔臭く思うかも」「飽きちゃうかも」という不安はあったものの、「そしたらちゃんと他人に譲るところまで責任もってやろう」「飼い主が変わっても負担が軽いように、子猫を飼おう」と決めて、飼い始めた。
結果、思ったよりずっと可愛がってる。誇張じゃなく1日200回ぐらい「かわいいねー」と言っている。
しかし、いわゆる猫可愛がり(可愛い造形のものをかわいい!と言い、撫で回すだけ)ではなく、なんというか、自分はちゃんとかわいがれていると思うし、そのことに驚いている。
たとえば、同じ部屋に住まう生き物として息が合うことの心地よさを感じている。私が寝ると猫も寝て、私が起きると猫も起きる。猫が遊びたいときに遊び、甘えたいときに甘えさせている。猫のムードは大体「寝たい」「甘えたい」「遊びたい」のどれかなのだが、ムードを察知して合わせられるようになった。
猫の健康や成長を尊く、喜ばしいこととして感じられている。旅行で一週間家を空けた後にだっこしたら「重くなったな」と思ったし、実際100g重くなっていた。急にエサを食べなくなった日があったのだが、「多分歯が痛いんだろうな」と検討がつき、実際病院に行ったらその通りだった。それぐらい細かく観察できている。(猫が元気ないと同調して私も元気がなくなるほどである。)
猫に限らず動物は小さければ小さいほど可愛いはずなのに、なぜか500gから2.8kgに成長した今が一番かわいい。
ということはきっと、かわいいというのは単純な造形の可愛さによらず、愛着によるものが大きいのだろう。
猫との同居により知れたことはあまりに多く、そして、情報量が増えるとともに更に可愛さが増している。
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でも、まだまだだなと思う。まだまだ、うまく可愛がれていないなと思って落ち込むことがある。
先日、タイ在住の「尻尾のない犬」さん @inu_grapher の、このツイートを見た。
先住犬のちびこが、後から来た子犬、タンタンの母親がわりになったというもの。
ちびこは、自分の意思関係なく突然あらわれた血のつながらない犬に、無償の愛を与え続けた。
私は自分の意思で猫を迎え入れたにもかかわらず、ちびこ以上の世話をしてやれていない。24時間かまってやれてない。たぶん平均的な飼い主よりはかまってやれてると思うけど(在宅時間が長い)、突然一泊旅行に出かけたりもする。そして在宅時にも「家にいる時はリラックスタイムでなんら生産的な活動しなくていい」と思うタイプではないので、執筆とか読書をガンガンするし、その間はかまってやれない。
もし今猫が死んだら「もっとかまってやればよかった」と思うし、そう思うということはつまり、かまい足りないということだ。
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しかしもし私に時間が無限にあっても、猫を十分にかまうことはないような気もする。
私はきっと、猫に「私がいなくても一人で遊べるようになってね」という無言のメッセージを送りたいのだろうと思う。
これはおそらく、私が母から受け取ったメッセージ(と私が思い込んでいるもの)の再生産である。
母は愛情をたっぷり与えてくれたと思うし、はたから見ても愛情深い母親だったと思うけど、それでもなんだか私は、母の愛に、事務的っぽさ、というか、親という役割だから子にはこれだけして当然、というような、まるで仕事のようなそぶりを感じてきた。
猫はどうやらものすごく私を愛してるように見える。かなりの確率で私の方を見てるし、私が寝そべると結構な確率で寄り添ってくる。トイレにもついてくるし、私がシャワーをしている時は、水が怖くてシャワールームには入れないものの扉の前で待機している。
そういう様子を見ても、愛をまっすぐ受け取れない。「猫は別に、私だから愛しているわけじゃないよなあ」「ただの本能だよなあ」「飼い主が私じゃなくても、この猫はきっと飼い主になついただろう」「実際誰にでもよくなつくし」みたいなことを考えてしまう。自主的に愛を目減りさせてしまう。
私だって猫を愛しているが、その愛も目減りさせて見積もる。別に他の猫でも良かったし、とか、別にいなくてもやってけるし、とか、何かと担保をつけてしまう。
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愛に対して、振り回されそうで怖いという感覚がある。
愛し続けると、賭け金がどんどん大きくなるギャンブルで勝ち続けてるような怖さがある。
実際それは的外れな感覚ではない。猫を愛せば愛すほど、猫が死んだ時の哀しみが大きくなるのだから。
「この猫が死ぬまで見届けたい」「どんな老猫になるか見てみたい」という気持ちもあるが、そこまで愛してしまったら何かが取り返しがつかなくなりそうで怖い。
「まだ子猫のうちに人に譲った方がいいのでは」「どうせ私はベトナム永住しないんだし、飛行機に乗せて寒い日本に連れて帰るよりも、生まれ育った地で長く飼ってくれる人に譲った方がいいのでは」と考えてしまう。
猫思いな言い訳が立つうちに、猫思いな飼い主として猫を手放すべきかもと考えているが、実際は愛が閾値を超えるのが怖いだけである。
自分の意思で猫を飼っておきながらこんな有様だ。
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これが猫だけならまだいいものの、人間に対しても同じ感覚を持っている。つまり、好きになりすぎたら怖いという感覚。だからあんまり仲良くなれないんだろうなと思う。
私は出会う人間の99%が嫌いかどうでもよく、1%にすごく執着する。友達付き合いが深く狭い。
世の人を見ると、出会った人間の30%くらいの人と、ゆるく付き合っているように見える。
私は職場の送別会などで本当にさみしくなった記憶がない。
今ベトナムで日本語を教えている学生が日本へ旅立つ時も、実際的な心配(飛行機にちゃんと乗れるかとか、過労死しないかとか)はするが、さみしくはない。でも送別会では一応寂しいパフォーマンスをしないといけないので疲れる。
そもそもなんで学生とわざわざ仲良くする? 絶対来年別れるのに? みたいな感覚が通底しており、だからそもそも学生とそんなに仲良くなれない。
いや、プレゼントを贈り合ったり一泊旅行に行ったり、と、はたから見たらかなり仲良くしている教師・学生関係だと思うのだが、なんだか「仲良しパフォーマンス」をしている、というような、一枚薄紙をはさんでいるようなもどかしさがある。
もし、その時々人生で現れた人――職場とか学校とか――と仲良くして、また次の職場に移ったらそこでまた友人を作れば、さみしくないし、そうできてる人は世に多いと思う。
でも私はそれをやったことがない。人間の好き嫌いが激しすぎるからというのもあるが、「そう簡単に離れそうにない人としか仲良くしたくない」といこだわりがあるのかもしれない。
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愛が欲しいと思うし、愛を与えたいとも思うのだが、でも、愛を与えられないなー、与えられない限りもらえもしないよなー、ということを、ずっと思っている。
もともと私は愛の持ち分が少ないんだと思う。慢性的に不足している。おそらく思春期ごろから。大人になったら愛は自分で自分に補給してやれば大丈夫、というのは学んだのだが、そこのできなさが、私のあらゆる活動を阻害している感じがする。
自分のことを愛してくる人も「なんだこいつ、どーせ誰でも良かったんだろ」とか思ってしまうし、自分が愛する相手に対しても「どーせ誰でもいいんですよ」というそぶりをしてしまう。人生で初めて1年以上続いた彼氏がいたのに「ベトナムに行きたい!」と言って東京に置いてきてしまった。そういうことをしておいて愛が足りない寂しいと言って10分置きにSNSを見る生活に入ってしまうのは本当に自業自得なのだが。
先日の日記にも書いたが、東京とインターネットに入り浸っていた頃、同じ類の文章しか出力できなかった。それは、愛が慢性的に不足していたからだった。何を書いても「さみしい」「分かって」の言い換えでしかなかった。
そういう文章が、東京でインターネットで割とウケるのは知ってる。東京とインターネットには同じく寂しい人が多いからだ。でもそういう人達の傷の舐めあいとしてしか機能しない文章を、もはや書きたいとは全く思わない。むしろ激しく避けたい。
有能な書き手の中にも、幸せな書き手と不幸せな書き手がいる(当たり前だが)。
ものすごく有名で、作品の評価が高くとも、「この人、全然幸せじゃなさそうだなー」という書き手はたくさんいるし、実際に会ってそう思った相手もいる。
飯のタネだとしてもそういう活動をしたくない。この頑なさが飯の食えなさにつながってるとしても、この頑なさを手放そうと思わない。
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猫は、私がいるとすり寄ってくる割に、私が長期不在してもケロッとしてる。その執着の無さが、私に似ており、そして、私の友人たちにもとても良く似ている。
渋澤怜(@RayShibusawa)
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