美しき国字の世界「匂」

 中国から伝わった漢字。日本ならではのニュアンスや言葉を漢字にするために日本人がつくった漢字を国字という。その国字について、エッセイを書いています。こちらは「PLEASE」の12号に掲載したものです。

 自分の人生を振り返ってみると、「色気」というものに無縁だった気がする。もう少し色気があったら、とか、男としての魅力に欠けているんではないか? と思うことが多い。

 この色気は一体、人間の五感の中のどこで感じ取るものなのなのか? そんな疑問に正解ではないものの、時に便利な国字がある。「匂い」だ。漢字にある「臭い」とは違うところがこの「匂い」のニクいところなのだ。

 臭いの字は人間の五感の中でも「嗅覚」で感じるものだ。余談だが、臭いの記憶は人間の脳の中にこびりつくように残ると言われている。雨の降り始めのちょっと埃臭い臭いの記憶なんてあるのではないだろうか? ぼくはある時に病院にお見舞いに行き、そこで嗅いだ臭いは本当に今でも脳裏にこびりついて離れない。

 本題に戻るけれど、匂いになると鼻で感じる嗅覚だけでは片付けられない。「角川 新字源」(角川書店刊)を開いてみると、「おもむき(余韻)を「におい」ということから」とある。「おもむき」であったり、「余韻」であったり、日本人が好きそうな感覚。ふと思う。色気とは余韻なのではないか! と。

 だから、刑事ドラマで刑事さんが犯人くさい奴に「あいつ、におうな」と使うセリフは嗅覚からのものではなく全体感からにじむにおいだろうから、一瞬「匂う」ではないかと思えるが、そんな野暮なことで使って欲しくないから考えないことにする。

 「匂い」は官能的なことを感じる力を表現できる日本独自の漢字なのではないか、と思うのだ。「匂い立つ」ことが重要なのである。まあ、難しいところでは和食の出汁の「におい」は鼻からの直接的なものであると同時に余韻も楽しむことができるので、「匂い」と書いてもおかしくないのかもしれない。

 なんだかんだ言っていても、ぼくは「臭い」を使うべき文脈でも「匂い」を使ってしまうことも多い。「匂い」という文字そのものが好きなのだと思う。

 漢字を当てながら、その差を見るというのも良いと思う。

 たとえば、「男(もしくは女)の匂いがする」と「男(もしくは女)の臭いがする」と書いただけでも、おわかりいただけるであろう。

 前者は男らしさがにおう、と言い換えられそうだが、後者は言ってしまえば加齢臭かもしれないし、汗臭さかもしれない。直接的な嗅覚を刺戟する「臭い」を性別にくっつけるとそれは嫌なものを感じていることになり、「匂い」を性別にくっつけると「魅力」を言っているに等しくなってしまう。

 こんな例もあるだろう。「髪が臭う」と「髪が匂う」。前者は数日洗っていないとか、夏の暑い日の汗が染みついた異臭を発する髪でしかないが、後者はフェロモンを発しているようにさえ読める。そう考えるとここで後者が「におう」のはもはや髪だけの話でないことも感じられるということだ。

 「匂い」というのは先ほど官能的だと書いたけれど、同時に本能的でもあるのかもしれない。人が発する情報は本当に多岐に渡ると思う。

 仕草、佇まい、所作、行動、言動、癖、目線、体つき、生命力、指の動き、鼻の形、髪の揺れ方、筋肉のつき方……。

 人によって感じる部分は十人十色である。枚挙に暇ないほどの感じ方があるのだと思う。匂うところにこそ色気を感じる人もまた少なくないと思うのだ。

 そういう意味では「臭う男」ではなく、「匂う男」になりたいものである。

 「匂いがある人」を人は好きになるものなのだ。残念だけれど、ぼくにはどうやら「匂い」が少なそうだ。


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