見出し画像

Cahier 2020.07.28

長梅雨もいよいよ終盤に差しかかっているのか、地を割って蝉が羽化して鳴き始めている。蕭々とした雨音が蝉しぐれに代わり、白い日差しが嫌になるほど照り付ける日がじきやって来る。

連休中、わけあって予定していた旅行をキャンセルし、手持無沙汰になったので、思い切って断捨離をしてみた。

本や衣類は気が付いたときに入れ替えしていたけれど、東京に引っ越してきてから一度も手を付けたことのない箱がある――中高生のときに友達とやりとりしたおびただしい手紙の数々、そして高校卒業してから現在に至るまで、断片的に書き続けている日記ノート、そして旅先や美術館・劇場・映画館でもらった、これまた大量のパンフレットや小冊子、プログラムである。

気恥ずかしくて、とても再読する気になれないのだけれど、勇気を出して開封すると、親友の手書きの文字がびっしりとルーズリーフに敷き詰められている。さらに気合を入れてその文字列に目を落としてみると、当時感じていたこと、悩んでいたこと、夢中になっていたことがそのまま紙面に息づいているのだった。当時流行っていたニュアンスカラーのジェルボールペン、一緒に読んだ漫画の主人公の口調を真似た文体、変えようもない書き癖、その人にしかない細かなとめはねのニュアンス、コロコロと変わる好きな人のニックネーム。すっかりデジタルフォントや写真・画像に慣れきったわたしの目にすら、手書きの文字というのは驚くほどの情報や情感の保存性を備えているように見える。

何年か前、根津美術館で古筆切の展示を観たことがある。

主に平安時代から鎌倉時代にかけて編まれた和筆の絵巻や冊子を断片にして、手習いの見本としたり鑑賞に用いるもので、現存する最古の古今和歌集のテキストとして知られる「高野切」が特に名高い。

室町、安土桃山そして江戸時代の文人たちは、和筆の技法や和歌を学ぼうというときに写本という形を取っていた。和歌の心は手書きの文字を真似て写し取ることで時代から時代へと伝えられてきており、おそらくAIに手書き文字から情感をくみ取り、新たに和歌を作るようシステム化することは難しい(よく知らんけど)。人の手で書かれた文字が帯びている意味や情感といったものは、コピペで大量拡散される情報や3秒程度でダウンロード可能なデータとは趣を異にしたものなんだろう。文学とは元々そういう性質のものであるということを、古筆切のコピー(悲しいけどコピー)を眺めてはよく思い出す。

手書きの文字というのは、それが意味する内容や与える情報以上に書き手の存在を生々しく活き活きと伝える。フランス語には「エクリチュール(écriture)」という美しい概念があるけれど、まさにその最初の形だと思う。

中高時代は他愛もないことから真剣な恋愛の悩みまで、とにかく何でも手紙を書いては交換していた。大学に入る頃にはmixiをはじめSNSが発達してきて手紙を書く機会は激減し、ほとんどテキストメッセージにとって代わられた。バックアップも取らず、送受信箱がいっぱいになったら躊躇いなく削除する。以前のメールで何を交換したかより、次来るメールだけを気にするようになった。たまに送信ボックスをあさってあれこれ思い悩むことがあると、「やばい、なんか病んできた」という気分になってくる。

最近ふとしたことをきっかけに、LINEやメッセージのやりとりを見返す時間が長くなったことがあり、そのときは「病んでる…」とさらに気が重くなったものだったが、過去の膨大な手紙を見返してみて、妙に得心が行った。

わたしたちがテキストメッセージでやりとりしているのは、形としては0か1かのデータだが、中身はルーズリーフにジェルボールペンで書きなぐっていた頃と何も変わっていない。削除したりブロックすれば二度と見ずに済むけれど、その心まで消してしまえるほど、人間は便利にできていないのだ。

このおびただしく生々しい黒歴史の累積と向き合いながら、さて、一体どうしよう。ひとまずこれから本格的に始まる夏に向けて、シルクスクリーンの夕顔の絵葉書を手に取る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?