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「あのひとのとなりに」

萌子はその年、脱水症状がひどいと言う診断で入院させられてしまった
最もそれは口実で、もっと深刻な問題が身体の奥深くに潜んでいたに違いない
実に入院一ヶ月になると言うのに、ずっと点滴をしている
「お腹空かないの?」
右隣りのおばさんが、萌子に聞いてくる
この一ヶ月あまり、萌子がろくに食事を摂っていないことを知っているからだ
萌子はまだあまり食欲がないと言って、笑ってはぐらかした
何か、食べたいなとは思う
右隣りのおばさんは、萌子と同じように貧血があって三時のおやつがつく
だが萌子にはつかない
明らかに萌子の方が病的に痩せている
右隣りのおばさんにつくおやつの、ミニジャムサンドやそうめん
なぜか三食のご飯よりも魅力的に見える
おばさんが食べない?
って聞いてくれるが、萌子は首をふる
ほんとは少し、ううんかなりミニジャムサンド食べたいと思う
気になるけれど、どうしても欲しいです、って言えない
左隣りのおばあちゃんは小さくて痩せているけど、食欲旺盛だ
このおばあちゃんには小さいけど手作りプリンがつく
なんでだろう?
多分萌子の食欲のなさは、精神的なものから来ているものだから
一度食べ始めれば、若いのだからすぐ体重も戻ると思っているのだろうか
そう言うことではないのだけれど
第一食欲がなくて胃も小さくなっていると言うのに、萌子には目を喜ばせてくれるようなおやつがつかないのだ
そしてまた食べない、と言う言葉と視線が投げつけられる
萌子だって、このままずっと食べないで死ねるとは思ってはいない

若い娘が死のうと思う理由など、たいていひとつかふたつと決まっている
それがどんどん周りの人間に囲い込まれて行き、原発がなんであったかさえもわからなくなる
人は萌子の我が儘や甘えや気まぐれ・気を引く為の演技だとたいして心配はしなかった
むしろ手がかかるようになって、持て余していた

小指の下の感情線の端の方に出来る、小さな楕円の潰れたような
タイ米みたいな形のものがある
失った大切な人の数だけ、この手相が出来ると言う
気がつくと、二つだったのが三つになっている
萌子には大切な人が誰で、何人いたのかなんてわからなかった

この頃よく、小さい頃病院で遊んだ男の子のことを思い出す
あと、もう少し大きくなってから遊んだ兄弟くん二人のことも思い出す
子どもの頃の萌子は活発で、よく男の子と遊んでいた
この男の子三人の顔は、不思議なくらい覚えていない
真っ黒に色を塗られたみたいな印象の顔で、現れる

そう言えばその子のお母さんから手紙を貰ったような気がする

「手紙読んだような気がする」

気がしてきただけだろうか

あの男の子たちが懐かしくて会いたいから、なんでもいい紐づけしたくて、自分で記憶を操作しているのではないか

本当の友達の顔を忘れてしまう

本当の友達ってそういうものかも知れない

どうでもいい友達の顔は忘れないというのに

ほんの青春のひとときを、ただ大人になって必要で大切で生きて行くのにないと困る協調性の為だけに
仲良しのふりをしなければならなかった

一緒にご飯を食べる、遊ぶ、友達の手前いないと恥ずかしい彼氏とか
いないとみんなに笑われるとか
わたしより先に結婚するの?
とか言われてなんだか、男の人といるよりショッピングとか女子会話の方が楽しくて楽だったなあ
でもたいてい、先に釘を打っておいてみんな自分だけはいいとこ取りしてた

ああ、あの子

死にました

って、あの子のお母さんから手紙がきたんだ

そんな手紙がきたの忘れていた

どうして忘れていたんだろう

お年寄りばかりの病棟で、小学生のわたしと幼稚園の男の子だけは子どもだったから、よく遊んだんだ

でもなにをして遊んだのかも覚えていない

子ども雑誌の付録のシンデレラのミニ漫画をくれた気がする

もしかしたらあの子が死んだ手紙も、わたしの記憶が操作したことかも知れない
もっとつらいことから、今つらいことから逃げ出したくて
一緒に病院で暮らしたあの子を殺したのだ

「きっと死んでないよ」

わたしはなぜかガッツポーズをして、自分を励ました
あの子は立派な大人になって、きっと素敵な奥さんと元気な子どもに囲まれて幸せに暮らしているよ
なんの迷いもなく、働き盛り男盛りの一番いい日々を送っているよ

萌子は夕飯が終わり消灯が近づくにつれて、頭痛がひどくなってくる
だから夕飯が終わると、ギリギリと精一杯強くタオルを頭に巻いて身構えている
看護師や右隣りのおばさんはまたやってる、と大袈裟に笑うけど、萌子を襲う頭痛は半端ではない
七転八倒
まさに寝ていられずにベットで寝返るどころか、寝ていられずに頭を押さえながらカーテンの外をぐるぐる回る
耐えきれずに病室の外に出て、隙間を見つけてうずくまって頭を抱えて泣いて我慢をした
こんな時だけ、ああお母さんお母さん助けて、と心の中で叫んだ

最近とても早く起きてしまう
ほとんど眠れなくて、待ちきれずに起きたと言った方がいい
この前朝早く、5時くらいだったのだろうか
窓際で何気なく下を見たら、見たことのある看護師がストレッチャーを外に出しているところだった
「看護師さんひとり?それになんで脇に患者が立ってんの?」
看護師とストレッチャーと一緒に、患者らしいパジャマのおばちゃんがいる
見るとストレッチャーは敷布がかけられ、バンドがされていて、白足袋を履いた足の脛?部分が見えている
細い足だった
ストレッチャーからはみ出るくらいだから、背の高いおじいさんだったのだろう
萌子はその白足袋の人が、おじいさんだと直感した
はじめて見た光景だったが、妙に納得していた

萌子は恋人を亡くしていた
はじめは子どもが出来ればすぐ結婚すると思っていた
きっかけがなければ、萌子の恋人は付き合うことも結婚することも言い出せない人だった
そのうち永すぎた春で子どもなどあきらめてしまった
男は29歳までは不安で堪らないから女に癒しを求めるけれど、30歳を過ぎると仕事も友達とも遊びも乗ってきて、もっと自由でいたくなるらしい

萌子はやはり、ずっと孤独なままだった

「もっと口角上げたらどうなの」

恋人が冷ややかな目で、嫌みたらしくいう
わたしから笑顔を奪ったのは誰なの?
あなたの捨てられないという仕事だわ
あなたが捨てられないか怯えている仕事にだわ

どうしてこんな冷たいつまらない人を好きになったんだろう
仕事のためなら、黒も白ですって言うような人を
尊敬して信頼なんかしていたんだろう

別れてから、恋人が車で父親のいる町に向かっている時に電柱に激突して死んだことを、萌子の父親が聞いてきて教えてくれた

仕事が超過労働で時間外や外回り、店舗の草刈りまでさせられていて、休みもろくに取れなかったらしい
居眠り運転、だった

それからわたしはご飯をあまり食べもしないで、こうして入院しているのだが、彼のことに関してはあまり悲しくもない
長い時間をかけて、彼のことはどうして好きだったのだろうと不思議に思うくらい
淘汰してしまった
むしろ彼に捧げた時間と若さを返してほしいくらいだ

だからわたしの手相の印には彼の数は入っていないはずだ
三人分しか印がないから
彼は数には入らない

きっと彼も死んではいない
現実には生きていて、新しい女性と健康な子どもを授かっているだろう
彼もわたしが殺しただけだ

もう少ししたら、きっとわたしも元気が出るだろう
そしたら夏だし、やっとあのお気に入りの茶色の半袖の、スカートの部分だけ花柄でウエストリボンのワンピースを着られる
あれなら、お彼岸にも地味でいいわよね
早く、おうちに帰りたいな
今年だけはすごくそう思う

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