『隅田川』–amzワンドロ企画–

朝だ。枕元でアラームが鳴る。曲は昔からずっと大好きな、別れの歌だ。

寝巻きから作務衣(さむえ)に着替える。母屋の廊下をひたひたと進み玄関の上がり框(かまち)に一旦腰を下ろして雪駄に履き替える。今日もまだ、寒いだろうか。自然と溜息が零れる。
のっそりと立ち上がり引き戸の突っ張り棒を外して外に出ると、冷たく鋭い空気が僕の肺を突き刺す。冷気にやられて咳き込んでいると玄関脇の倉庫の下から茶虎の猫が顔を出した。
「おはよう、さくら」
僕がしゃがんで人差し指を出すとこちらに向かってきたさくらが鼻を近づけてすんすんと匂いを嗅ぎ、そのまま頬を擦り付けた。僕の手は自然とひっくり返り、猫の顎を撫で始める。
ひとしきり、猫の相手をして僕は立ち上がる。倉庫から箒を引きずり出し、最初に門の内側を、次に庭を、本堂の前を、静かに掃き清める。
あたりには箒が地面を撫でる音と時折通る車のエンジン音だけが響いている。
ふと空を見上げると、僕の吐いた息が青白い空に白く昇っていった。冬の太陽は相変わらず儚げだ。

僕はこの寺で副住職として働いている。何も語ることもない、ただの坊主頭の27歳だ。
実は、こんな僕にも思い出すのが億劫になる程、切なくて優しくて泣きたくなるような、そんな人がいる。
その人は僕の心にそっと明かりを灯して、静かに去って行った。春先の太陽のようで、それでいて台風が残して行った流れの速い雲のような、そんな人で、僕にとっては紛れもなく「幸せ」の塊のような人だった。

高校一年の春、入学してまだ二週間と経たない、空の青と春の淡い色合いが美しい放課後のこと。僕はただぼんやりと四階の端に位置する教室の窓から眼下の桜を眺めていた。
「死にたい」
本当は高校なんて、もう学校なんて、嫌だった。今なら間に合うだろうか。僕のことなど覚えてる人なんてほとんど居ないだろうし、今ならまだ、間に合うかもしれない。何も始まらないうちに、何も知らないうちに、もうこれ以上傷つかないうちに、死んでしまおう。
窓枠を両手で掴み、右足を掛けた。左足で床を蹴って体重を徐々に右足へ移行していた時、後ろから足音が聞こえた。気にしない。僕がここから飛び降りたところで後ろの足音の君には関係ない。大丈夫。そう、頭の中で念じた時、その足音がすぐ近くで止まったことに気づくのと、その足音の主人が僕の懐に手を回し抱きつくのは、ほとんど同時だった。
困る。この足音の主人まで一緒に落ちてしまったら、とても困る。もしこの人が一緒に落ちて死んだら、僕は死んでも死に切れない。
そう思った瞬間、僕の左足は再び教室の床に着地していた。
振り向くと、その人は凄まじい勢いで僕の胸ぐらを掴んで言った。
「何してんだよ、忍田。」
僕は咄嗟に言い繕った。
「桜を、桜を見ようと思って…」
西波先輩は僕のブレザーの襟を掴んだまま、口を開けて、何か言い掛けて、やめて、代わりにこう言った。
「忍田が来ないから、もしかして先に道場行っちゃったかと思って探してた。今日ミーティングな。」
そう言い切ると手を離し、ポケットからティッシュを出して僕に突きつけた。

後で彼女に聞いた話によると、僕はその時泣いていたらしい。
「自分が泣いてることにすら気づかないなんて。」
と明るく笑う彼女に、僕は頬を緩めて言い訳した。
「先輩の行動が衝撃的すぎて。」

西波先輩は、僕の命の恩人だ。
いや、恩人なんて平凡な言い方じゃ足りないくらい。僕はこの人に幾度となく薄暗い川底から掬い上げられては川辺で必死に息を吐いて、吸って、この世界での呼吸の仕方を、生き方を教えてもらった。
恩人というより、彼女というより、なんとなく師匠という感じがして、付き合い始めて一年が過ぎようとしている今でさえ、あなたの事を「先輩」と呼んでしまうのです。

「その、先輩って言うのやめろよな。私もう部活も引退したし、高校も卒業したし、もう先輩じゃないし、そもそも付き合って何年だよ?え?」
「先輩こそ、忍田って呼ぶのやめてくださいよ」
夏の天の川の下で、二人して縁側に腰掛けて笑いあっていたその時、どこかからひゅーという頼りない音に続いて地の底を鳴らすような低い音が聞こえてきた。
「花火だ!」
西波先輩は三和土(たたき)に置いてあった雪駄をつっかけて庭から母屋の向こう側を背伸びして見上げた。
「見えますか?」
多分、町と町の境にある沼地でやっている花火だろう。
「見えないや、音だけ。」
そう言って西波先輩は再び僕の隣りに腰掛けた。
「この前さ、東京で大きい花火大会があって、大学帰りの電車が混むからって言って、みんな授業休んだんだよね。まあ下り方面の私らには関係ないんだけど。」
大学か。僕はぼんやりと大学に行きたいなと思った。
「あれ絶対、みんな授業休んで花火見に行ってるよね」
先輩がちらっとこちらを伺う。
「見たいですか?花火」
「まあ、忍田の人酔いが治ったら、かな。」
「善処します。」
また二人はどちらからともなく笑い始めた。

結局、僕と西波先輩は「忍田」と「先輩」のまま、最後まで師弟のような関係は変わらなかった。
今思うと、それがいけなかったのかもしれない。
僕は徐々に、先輩の存在に依存し始めていた。

先輩も僕もお世話になった数学の先生が定年で退職することになり、僕らは久々に母校に向かって歩いていた。
「何も変わってないな」
「全然変わってませんね」
母校までの道のりは驚くほどあの時のままで、僕らが並んで弓を持って歩いていた時のまま、空気の流れが止まってしまったかのようだった。
変わったのは、僕らが制服で歩いていないことと、あの長い弓を振り回しながら大騒ぎしてこの急な坂道を教頭が追いかけて来ないことくらいだ。
あと、もう一つあるとしたら、先輩と手を繋いでいることくらいだろうか。
あの日、僕が泣きながら眺めていた桜の木は鮮やかな若葉を身に纏い、夏に向けて徐々に強くなる陽射しに対抗するように枝を広げ、空を掴もうとしていた。
「先輩、今年は花火、行きましょうか。」
蝉の抜け殻を手の平に乗せて遊んでいた先輩は、こちらを振り返り笑顔で頷いた。

僕は、この笑顔がすごく好きだ。
できれば、ずっと一緒にいたいと、ずっとあなたのそばに置かせてもらいたいと。そんな絵空事を空想してしまった。

花火大会の日、案の定、僕は人の多さに怯んで歩幅は狭くなり、足はどんどん重たくなっていた。
それでも、花火が始まる前に食べたいから、と言ってりんご飴を探すこの人の手だけは見失わないように、ずっと握っていた。

「ごめんな」
土手から少し離れた人の少ないところでりんご飴を食べ始めた先輩が隣で謝った。
「すみません」
僕も謝った。
「先輩、僕。実家を継ぐことにしたんです。」
気づいたら、今日花火を見終わって帰るときにしようと思っていた話を口走っていた。

先輩はりんご飴を齧るのをやめて僕の顔を覗き込んだ。
知らず知らずのうちに下を向いていたらしい。
ここまで言ってしまったら話すしかないではないか。
「大学出たら修行を始めようと思って。修行を始めたら先輩には会えなくなってしまうんです。」
「うん」
「結構長いんです。修行。」
「うん」
予定では、修行は三、四年行うことになっている。これは父親と話し合って決めたことだ。四年間、一切の欲を断ち、毎日経を読み、どんな日も心を平穏に保たなければならない。
「お、ついにかあ」
西波先輩は何故か少し嬉しそうに言った。
もともと、寺を継ぐ自信がなかった僕に、向いていると思うと言ってくれたのは先輩だった。

花火が打ち上がった。

ただ一緒にいたかった。今からだって遅くないとは思う。四年間、待っていてくれないかと、そう言えばきっと先輩は待っていてくれると思う。でもそれは、先輩を、先輩の大切な時間を奪ってしまうことになるのではないか。
散っていく花火を見て僕はいろんなことを思い出した。高校から大学どこを切り取っても、桜を見たかったと嘘をついて泣いていたあの日から、繰り返す四季の流れの中にはいつも先輩がいた。

気づいたら僕は、花火を見ながら泣いていて、いつのまにか先輩の手を離して両手で涙を拭っていた。

花火が終わって、食べ終わったりんご飴の残骸を口にくわえたまま先輩は僕の髪をくしゃくしゃと撫でて
「これが坊主になるのかあ。楽しみだな」
と言った。そして、こう続けた。
「いいと思う。待っててもいいけど、忍田のことだから、待たせてると思ったら申し訳なさに押し潰されて、また沈み込んじゃうんじゃないかなって心配なんだよ。だから」
僕は泣きながら頷いた。
「忍田は、秀嗣(ひでつぐ)はもう、私がいなくても大丈夫。」
ね、と西波先輩が微笑む。
僕は泣きながらこう返すのが精一杯だった。
「善処、します。」
二人して泣き笑いみたいな顔をしながら、手を繋いで帰路に着いた。

電車を降りて、改札を通り過ぎた時、先輩がふんわりと僕を呼び止めた。
「あの時、本当は、桜が見たくて身を乗り出してたんじゃなくて。死のうかなって思って身を乗り出してたんでしょ?」
このことについては今まで先輩は一度も触れなかった。
僕は静かに頷く。
「でも、その後に泣いてたのは、まだこの先、何度でもこの桜を見たいなって思ったから、じゃない?」
そう、僕はあの時も今もずっとずっと生きていたいと、そう切望していた。
「そうですね。でも、それだけじゃなくて。あの時、先輩が、先輩が止めてくれたから。」
ここから先はもう言葉にならなくて、僕はまた泣いてしまって。先輩はちょっと面白がるような目で僕を見上げながらずっと背中を撫でてくれていた。いつのまに、あなたよりも背が高くなっていたことに気づいてこんなに長い間、ずっとあなたは一緒にいてくれたのかと、涙が止まらなくなった。

あの時、僕が泣いたのは、あなたのような人が生きている世界で一緒に生きていたいと、死ななくてよかったと、そう思ったからかもしれません。
墓地の掃除をしようと石段を降りると、寺の隅にある古い梅の木がほんのりと蕾をつけているのが目に入った。
もうすぐ、僕の好きな季節が始まる。