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「私は怠惰な人間です」って本当ですか?

「○○な人間」の部分には何を入れてもらっても構いませんが、とりあえずは怠惰で話を進めていきましょう。

いや、もしかしたら本当に怠惰な人間なのかもしれません。それこそ漫画に出てくるようなあらゆる行為を拒絶しているキャラ。そういう人もどこかにはいるでしょう。

が、「私は怠惰な人間です」と言っている人も、状況や行動によってはごく普通に行ったり、ときには積極的に取り組むこともあるはずです。なので、「統計的にいって自分は怠惰であるシチュエーションは多い」、みたいな言い方なら事実に近しいでしょう。

で、そういうのは所詮表現の問題なわけですが、言葉を扱っている人間からすれば表現こそがすべてだ、みたいな大見得を切りたくもなります。結構、言い方って大切なのです。

もっと言うと、「私は怠惰な人間です」と口にしたところで何も変わりません。というか、何も変えないために紡がれている言葉とすら言えそうです。

何かを変えるためには、何かを変えなければなりません。変えないための台詞では、やっぱり何も変わらないわけです。

じゃあ、何から変えていくか。

そこでブライトスポットです。『スイッチ!』という本で紹介もされていますし、『「やること地獄」を終わらせるタスク管理「超」入門』でも取り上げました。うまく行っている部分を起点にして、それを拡げていく。ごくごく単純な話です。

怠惰な自分ではあっても、そうでないシチュエーションがあるとしたら、そこにあるコンテキストを抽出し、他のシチュエーションにもそれを転用していく。時間はかかるかもしれませんが、なにせ自分発なので無理はありません。人格改造などしなくてよいのです。

でもって、これは自分理解への一歩でもあります。「私は怠惰な人間です」という大雑把な(むしろ偏見や思い込みに近い)理解ではなく、「私は○○なときには怠惰です。△△なときは普通で、■■なときは勤勉です」のように、より細かい理解へと近づいていく。よくある言い方を拝借すれば、自分について先回った意味付けをせず、できるだけそのままの状態を捉えようとする。そういう試みです。

これは別に自己啓発的高まりとはあまり関係がありません。もちろん、そういう方向に援用されても全然構わないわけですが、それはそれとして、思い込みの割合が小さいほど自由度は高まる、という話なだけです。そのことによって、何かしら面倒を引き起こす可能性があるにしても(変化を嫌う人は多いものです)、やっぱりある程度の自由は確保していきたいものです。自分という理解についても。

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