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Scrapbox知的生産術07 / 苦労したHomeはうまく使えない / 一気に流そうとすると、むしろ詰まる

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/06/13 第609号

「はじめに」

ポッドキャスト、配信されております。

◇第百六回:Tak.さんとアウトライナーのタイプ 作成者:うちあわせCast

◇BC039「現代のインターネット環境と退屈の哲学」 | by 倉下忠憲@rashita2 - ブックカタリスト

うちあわせCastでは、倉下が最近考えている「アウトライナーの二つの型」について検討しました。

ブックカタリストは倉下のターンで、「退屈との付き合い方」を考える三冊をテーマにお送りしました。よければお聴きください。

〜〜〜バズったツイート〜〜〜

先日、以下のツイートがバズりました。

ファボが1.42万でRTが4,300と、普段の反応に比べれば劇的な数字になっています。インプレッション数も84万。

が、別にそういう自慢をしたいわけではなく(ちょっとはあるかも)、いくつかの引用RTに、「これはhogehogeでも同じだな」というコメントがついていたのが印象的でした。

脚本、演劇、設計、アイデア出し、エトセトラ、エトセトラ。

つまり、文章に限らず、何かをつくるときには「まず作り、それから削る」という順番が重要になってくるのでしょう。それは理解できます。

しかし、もし私がそういう抽象的なツイートをしていたら、おそらくここまではバズらなかったのではないでしょうか。「文章において」というある具体的なレベルで記述したからこそ、得られた反応の多さだと推測します。

その意味で、具体と抽象とは面白いものです。きっと人の心に訴えかける「ほどよいレベル」があるに違いありません。

溜まる疲れ

6月に入って、少しだけ作業時間が取れるようになってきました。今年の1月から5月までは、本当に雀の涙ほどの作業時間でやりくりしていたので、メルマガの更新と毎日のちょっとした書籍原稿執筆くらいしかできていなかったのですが、その状況が変化しつつあるのです。

おかげでR-styleもちょくちょく更新できるようになっています。個人的には、よい気分です。

とは言え、そうやって一日の作業時間を少し割り増しすると、途端に「疲れ」をはっきり感じるようになりました。「ああ、いま自分は疲れているな」という自覚が生まれるほど、疲れているようになったのです。

考えればみれば、これは当然のことでしょう。

たとえ一日あたり1時間の作業割り増しであったとしても、一週間でいえば6〜7時間の増量となります。「一日」という単位でみれば1時間はそう長いものではありませんが、それが今日も明日も明後日も明明後日も続いていくことによって大きく積み重なっていきます。

時間の使い方は、積分される。

これはセルフマネジメントを考える上で、重要なポイントになりそうです。

〜〜〜読了本〜〜〜

以下の本を読了しました。

『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形 (光文社新書)』(稲田豊史)

以下の連載がベースになった本です。

どんな雰囲気の本なのかは上記の連載のどれか一つでも読めば十分に掴めるでしょう。

で、本書の問題意識そのものは共感できるのですが、議論の進め方にはどうにもしっくりこない部分が残ります。やや誘導的というか、結論ありきな議論に見えるのです。

個人的には「人間のコンテンツ摂取の形態は経験と共に変わってくる」と考えているので、あまり短い時間で切断して分析しない方がよいのではないかと思います。

とは言え、Z世代の「コンテンツ消費」がどんな実態なのかについては大変示唆がある内容でした。むしろ本書は「映画の見方」とか「本の読み方」についての本ではなく、「コミュニケーション論」の本として捉えた方が収まりが良さそうです。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 映画や動画を等速以上の速度で視聴されますか。されるときはどんなシチュエーションでしょうか。

では、メルマガ本編をスタートしましょう。今回は、Scrapbox知的生産術の07と二つのエッセイをお送りします。

「Scrapbox知的生産術07」

では、Scrapboxをどう使っていくのが、「カード法」的なのであろうか。言い換えれば、どのような利用方法が、デジタル・カード・システム(DCS)へとつながっていくのだろうか。

いくつかのポイントがある。

まず、大定番の「一つのことを一枚のページに書く」はやはり欠かせない。たくさんの内容を詰め込むのではなく、一つのページには一つのことだけを書き込むようにする。これを「一枚一事の原則」と呼ぼう。パタンランゲージ風に言えば「一つのことを書く」となる。

な〜んだそんなことか、と思われたかもしれない。しかし、この原則はなかなかに奥深いのである。特に発見や着想を書き込もうとするとき、如実にその難しさがわかる。何を持って「一事」とするのかがはっきりしないのだ。

たとえば、「一冊の本」ならば、はっきりと区別できるだろう。境界線ははっきりしている。具体的な「物」にはそのようにはっきり「一つ」が区別できるものが多い。

しかし、「一つの発見」や「一つの着想」となるとそう簡単にはいかない。境界線がうまく見つけられないのである。

試しに、以下の「着想」をお読み頂きたい。

"梅棹忠夫は知的生産の技術として、知的と物的を対比した。一方で、哲学の分野では、知的は行為的とも対比される。その対比では、知的は情報的を意味し、行為は現実(現象)的を意味する。この知的と行為という二項対立で、情報整理やタスク管理を眺めれば、新しい視座が得られるかもしれない"

さて、この着想は「一つ」だろうか。それとも複数だろうか。

たしかにこの着想は、私がある瞬間に思いついたものであり、そうした時間軸で分割すれば一つの固まりだと言える。しかし、情報的・意味的・概念的に見つめてみると、いくつかの要素が入り込んでいることがわかる。

私が「一つのことを書く」と言っているのは、後者の意味での「一つ」である。つまり、情報的・意味的・概念的に「一つ」のことを書くわけだ。

「一枚一事の原則」は、ノートを一回書くときに一ページに内容をまとめる、ということではない。そうではなく、書こうとしている対象を情報的に分解して書き留めよ、を意味している。

よって、ノートを一回書くときにページが2枚になったり3枚になったりすることが起こる。むしろ珍しくない。人の頭は別段最小単位で思いついてくれるわけではない。先ほどの例のように複雑なつながりと共に想起されることの方が多い。

そうした「くっついた着想」をできるだけ小さく分解して書くことが肝要である。

■文章で書く

次に、その「一事」の書き方だが、これは「文章で書く」のが必須である。必要であれば、図やイラストを使うことは可能だが、いけないのは「走り書きメモ」で終わらせることだ。

たとえば、先ほどの着想ならば「知的と行為的」が走り書きメモになる。これは実際に私のメモ帳に書いてあった文面だ。たしかに、私がそれを見れば、「ああ、あの着想のことだ」とわかる。しかし、その「私」の賞味期限は非常に短い。時間が経てば、どのような着想がその走り書きメモを生んだのかがわからなくなる。これでは使いようがない。

よって、最低限将来の自分が読んでもわかるように、文法的に正確な文章で書いておく。

また、そのように文法的に正確で、将来の自分が(つまりは他人が)読んでもわかるように文章を書くことで、自分の着想がより論理的に整理される効果もある。あるいは、理性が発揮されると言い換えてもよい。

人間の理性は言語活動と密接に結びついているという仮説もあるようだが、実際に文章を書いてみると、そのことが実感できる。怒りに満ちあふれているときでも、そのことについて文章を書いているといくぶんは冷静さを取り戻せるし、何かについての決断をしようと選択肢について記述しているうちに心のうちが決まってくることも珍しくない。

どうやら、言葉というフィルターを通すことで私たちの思考はずいぶんとはっきりしてくるらしい。むしろ、そのフィルターを通さないかぎり、私たちの思考はいつまでもふよふよとした形で漂っているものなのだろう。

だからこそ、一度しっかりそれを固めておくためにも、「他人が読める文章で書く」ことは書かせない。

■タイトルをつける

このように、「一つのこと」を「文章で」書いたら、後はそれにタイトルをつける。Scrapboxではエディタの一行目がタイトル行になっているので、そこに書けばいい(*)。簡単だ。
*一行目を空欄にしても、二行目がタイトルになってくれる。

しかし、このタイトルがまたくせ者である。あるいは「タイトル」という言葉の語感が勘違いを誘いやすい。標題と日本語にしても同じような勘違いが生まれるかもしれない。

たとえば、「羊たちの沈黙」は映画のタイトルだが、これはカードのタイトルとしてはふさわしくない。それを見ても中身がわからないからだ。むしろ、「元精神科医の囚人に導かれてFBIアカデミーの実習生が連続猟奇殺人事件を解決する物語」などの方がカードのタイトルとして適切だろう(あまりに説明的すぎるが)。
*もちろんあくまでたとえとして言っている。あの映画について書いたカードなら"『羊たちの沈黙』について"とタイトルをつければいい。

この点は重要なので、もう一度強調しておこう。ぜひとも上記の違いに敏感になって欲しい。

デジタルカードシステムでは、タイトルをブログ記事のようにつけては機能しない。そうではなく、中身を一行でまとめたサマリーをタイトル行に置いておくのだ。これを「要約タイトルをつける」というパターンでまとめておこう。

これを意識するだけで、カードがぐんと使いやすくなる。大切なポイントだ。

ちなみに、このようなタイトルづけは、カードに「一つのこと」だけが書かれているとき、やりやすくなる。逆に複数のことが入り交じっていたら、タイトルづけは難しい。

面白いことに一行の要約タイトルをつけようと頭をひねっているときに、カードの記述のどこが余計なのか(一つではないのか)がわかることもある。その意味で、「一つのことを書く」と「要約タイトルをつける」は密接に関係している。

■三つのポイント

ここまでのポイントをまとめておこう。三つ出てきた。

・一つのことを書く
・他人が読める文章で書く
・要約タイトルをつける

はっきり言って、この工程は簡単ではない。面倒である。ときにはCPUのファンが駆動するくらいに頭を使わなければならないだろう。

この点をまず理解しておいて欲しい。デジタルカードシステムにおいて、カードを増やしていくことは、楽なことではない。少なくとも、走り書きメモを書き留めておいて終わり、というような気楽な作業ではない。

たとえば、私は先ほどの走り書きメモを『西田幾多郎の哲学――物の真実に行く道 (岩波新書)』の読書中に書き留めた。本を読んでいるうちに、ひらめきがやってきたので、iPhoneのLogseqアプリを立ち上げて、そこに「知的と行為的」と書きつけた。ものの5秒ほどの話であり、知的な苦労は一切ない。

そうした「ひらめき」は、ほとんど自動的に(言い換えれば受動的に)訪れるものだし、その着想を「走り書き」で書き留めるのはスプーンで砂糖をすくうくらいに簡単な行為である。走り書きメモであれば、その着想のどの部分を書き取っても構わないから、選ぶのも難しくない。他の着想と識別できる、ある種の「トリガー」でさえあれば十分なのだ。

私がEvernoteやWorkFlowyに書き留めていたアイデアメモは、基本的にすべてこのような走り書きメモであった。

そうしたメモ書きはなにしろ簡単なので、その数は膨大に膨れ上がっていく。しかし、それだけだ。それ以上前に進むことはできない。

なぜか。それは「簡単」だからだ。言い換えれば、そこに「知的作用」がほとんど発生していないからである。

■頭を働かせる

上記のような簡単な「走り書きメモ」に比べれば、一つのことを他の人にもわかる文章で書き、それにタイトルをつけることは著しく疲れる行為である。

疲れるということは、「頭を働かせて」いるわけだ。つまり、知的作用が生じている。この「知的作用」がポイントなのだ。

知的作用が生まれていることを、広い述語を用いて言い直せば、その対象について「考えている」と言える。

アイデアの運用においては、いかに「考えを育てる」のかが重要だと先に確認したが、まさにその第一歩がここで始まっているのである。

私たちは情報に触れることで(いわゆるインプット)、何かしらを自然に思いつく。これは非常に軽い知的作用である。

そのことについてカード書きを行うと、その対象についてもう一段深く考えることになる。より重い知的作用が生じるわけだ。

ボクシングでいえば、走り書きメモがジャブであり、カード書きが右ストレートにあたる。走り書きメモしか残さないなら、それはジャブしかしないボクシングとなる。決定打に欠けることは間違いない。

■ふよふよの楽さ

正直に言って、思いついた着想は頭の中でふよふよさせているのが一番楽だし、楽しくすらある。疲れが生じないだけでなく、さまざまな可能性を残せるからだ。

「羊たちの沈黙」であれば、生物学に関する映画である可能性も残されいる。しかし、「元精神科医の囚人に導かれてFBIアカデミーの実習生が連続猟奇殺人事件を解決する物語」となってしまえば、その物語の幅がひどく限定される。

その意味で、はっきりしたタイトルをつける行為は、「アイデアの可能性を限定する」行為なのだ。これはちょっともったいない気もするし、先ほどの面倒さも合わせると、あまり意欲が湧いてこない行為でもある。

しかし、まさにそれが必要なのだ。その限定こそが求められていることなのだ。

頭の中でふよふよしている着想たちは、いくらでも可能性を持つがゆえに、いっこうに固まることがない。その概念が固定されないのだ。

固定されない概念は、「使う」ことができない。その概念を用いて、何かを論述したり、別の概念を組み立てることができないのだ。

あくまでメタファーであるが、ふよふよしているものは「ブロック」にはならないのである。積み重ねて、ピラミッドを築き上げるブロックには。

大きな構造物を組み立てるためには、たとえ小さくてもたしかに固まったブロックが必要である。そのブロック作りが、カード書きなのである。

逆に言えば、一枚のカードを書きつけることは、自分が使える(知的)ブロックを一つ作ることを意味する。もちろん、そんなブロックを一つ作ったところで、何か大きな変化が生まれるわけではない。可能性が限定された小さいブロックは、頭の中でふよふよしている無限大の可能性を持つ着想に比べれば貧弱にも思えるだろう。

しかし、大きなものを組み立てたければ、まず小さく作っていくことが肝要である。むしろ、いきなり大きなものを組み立てようとすれば、ひどい苦労をして、途中で挫折してしまうだろう。

その意味で、ここでは「急がば回れ」の精神が大切になってくる。

(つづく)

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