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『TAKE NOTES!』を読む その1 / 仕事と自己満足 / 本を紹介するための準備

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2022/04/04 第599号

○「はじめに」

以前、福島県の県立高校入試問題に拙著『すべてはノートからはじまる あなたの人生をひらく記録術』の文章が使われた、という話を紹介しましたが、別の試験でも採用されていたようです。2022年のお茶の水大学の入試試験で、しかも科目は英語です。

英語?

とちょっと思いましたが、拙著の文章が提示されていて、一番最後に下線部が引かれた文があり、その文で著者が言わんとすることを英語でまとめよ、という問題でした。

はたして著者自身がその問題に正解できるかは難しいところですが、なかなか面白い問題だったのは間違いありません。なんにしても、光栄なことです。

〜〜〜ポッドキャスト〜〜〜

ポッドキャスト配信されております。

◇BC034『啓蒙思想2.0―政治・経済・生活を正気に戻すために』 - ブックカタリスト

今回は倉下のターンで、『啓蒙思想2.0』を紹介しています。ちなみに、ハヤカワ文庫から新版が発売されているので、もし読みたいなと思った方はそちらをゲットしてください(単行本は入手しにくいです)。

啓蒙思想2.0〔新版〕: 政治・経済・生活を正気に戻すために (ハヤカワ文庫NF)

〜〜〜時間をかけてテーマを練る〜〜〜

「かーそる第四号」が出版できたので、「かーそる第五号」を作ろうと思ってはいるのですが、まだ「テーマ」が具体的に固まっていません。延々と考え続けています。

Scrapboxに「かーそる第五号のブレスト」というページを作ったのが七ヶ月前。この期間ずっと、ああでもない、こうでもないと間欠的に思索を続けています。「雑誌」でここまでテーマ決定に時間をかけられるのは相当に贅沢なことでしょう。通常の商業出版ではまず考えられないと思います。

この七ヶ月で、私の考えもいろいろ進みました。特に、先月行っていた「ライフハック考」とでも呼べる連載は、一つの方向性を捕まえたような気もします。そうやって考え続けないと至れない「解答」というのはあるものです。

これまでの号のかーそるは、「手慣れたテーマ」でいろいろ文章を書いていたわけですが、第五号では新しいテーマを開拓しようと思っています。そこが決定の難しさにかかわっています。

とは言え、いつまでも考え続ければよいというものでもないので、どこかで「えいや」と踏ん切りをつける必要がありますね。そのタイミングがいよいよ近づいていると思います。

〜〜〜非同期的ソーシャルブレスト〜〜〜

以前、Twitterのコミュニティを紹介しました。

知的好奇心向上委員会

https://twitter.com/i/communities/1496761082442297347

ちなみに「コミュニティ」というよりは、「クラスタ寄り合い所」みたいな感じのあるコミュニティです(意味不明)。

さて、このコミュニティに最近考えている「書籍のタイトル案」についてポツポツと投稿していたら、いくつもの反応をいただけました。非常に有益な反応です。

直接的なリプライではなく、いわゆるエアリプなのですが、さまざまな角度からの意見を頂いて、少しずつタイトル案が「ブラッシュアップ」されていく感覚がありました。ブレーンストーミングです。

しかも、そのブレストは非同期に行われています。皆が同じ場所・同じ時間に集うのではなく、それぞれ好きなタイミングでコミュニティのタイムラインを見て、発言するのです。その上、リプライではないので、「答え」になっていなくても構いません。関連ありそうなことをぼそっとつぶやくのでもOKなのです。

もしこれが、

「さあ、何かアイデアはありませんか。じゃあBさん答えてください」

という緊張感のあるやり取りだと自由な発想は出てこないでしょう。枠にはめすぎてしまっているのです。

むしろ、非同期で弱目的的な雰囲気こそがブレストにふさわしいのだと思います。

実際、そうやってブラッシュアップされたタイトル案と、自分ひとりで行っていたブレストの結果を見比べてみると、その発想の「幅」に大きな違いが見られました。ひとりブレストの場合は、最初に出てきた言葉の類義語をぐるぐるまわっているだけで、ぜんぜん「新しい発想」に至っていないのです。

個人の発想には、盲点(死角)がある。

わかっていたことではありますが、こうやって結果を比べてみるとより強く突きつけられる感じがします。

〜〜〜『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』〜〜〜

東畑開人さんの『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』を読み終えました。

『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』

端的に言って面白い本です。私たちと「心」の付き合い方の難しさを踏まえながら、それでも踏み出しうる第一歩を示してくれています。平易な文体と、挿入される「物語」が本書の複雑な構造を支えていて、これは書くのが大変だっただろうなとしみじみ思います。

複雑な事柄を、その複雑さをできるだけ損なわないように、それでいて「優しく/易しく」書くこと。素晴らしい仕事だと思います。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なるアンケートなので、気が向いたら考えてみてください。

Q. 600号記念で、何かやって欲しい企画はありますか?

ではメルマガ本編をスタートしましょう。4月は、大きなテーマに向けた準備を進めていきます。加えて、二つの原稿をお送りします。

○「『TAKE NOTES!』を読む その1」

現在、構想している大きなテーマがあります。知的生産に関係するテーマです。来月にでも、このメルマガで連載を書いていくつもりですが、その連載に入る前に準備段階としていくつかの文献をさらっておくことにします。ウォーミングアップです。

まずとりあげるのは、ズンク・アーレンスの『TAKE NOTES!』です。その大きなテーマ内で、直接この本を扱うわけではありませんが、カードをベースにした「情報を扱う手つき」を考えるために、本書は良い材料を提供してくるでしょう。

基本的には日本語訳の『TAKE NOTES!――メモで、あなただけのアウトプットが自然にできるようになる』ベースにし、補佐として原著である『How to Take Smart Notes: One Simple Technique to Boost Writing, Learning and Thinking』も参照します。

では、参りましょう。

■4つの主張

『TAKE NOTES!』には、大きく四つの主張があります。

・「考える」ためには書くことが必要
・完成品をゼロから作るのは無謀
・日々の材料集めが大切
・では、どうやってそれを行うか

それぞれ見ていきましょう。

■「考える」ためには書くことが必要

まず、思考における「書くこと」の重要性です。ここでいう「思考」とは、意識的な思索・考察のことで、直感的な思いつきは取り除かれています。意識的な思考を行うために、「書くこと」は非常に役立つだけでなく、むしろ必須である。これが第一の主張です。

なぜ思考において「書くこと」が必要なのか。

これは、そもそもの意識的な思考がどのように生まれたのかを考えることがヒントになるでしょう。ジョセフ・ヒースの『啓蒙思想2.0』にまさにその話が出てきます。

まず生物の進化において「理性」が適応的であるとは考えにくい。むしろ、何かしら別の機能が応用されて生まれたのだろうと推測される。では、その機能とは何か。「言語」である。これがヒースの見立ててです。

当初言語は、意志疎通のために生まれましたが、より大勢に向けて、より複雑なコミュニケーションを取る中で、固有名詞や抽象的な概念が生まれ、そして文法によって文が生成されるようになりました。そうした機能の副産物として、私たちは「理性」による(あるいは合理的な)思考が可能になった、というわけです。

仮にこの話が正しいとすると、いくつかのことが言えます。

第一に、私たち人間にとって理性を働かせて合理的思考を行うことは、「自然」なことではない、という点です。サルが木登りを易々とこなすようには、人間は理性を発揮させられないのです。そういううまくできない状態が「普通」だということが言えます。

私たちはまず情報を直感的に処理し、それで問題が生じるようならば、「よっこらせ」と合理的思考が駆動し始めます。「問題」がなければ、合理的思考は眠ったままであるということです。それはごくナチュラルな反応です。

第二に、合理的な思考はいくつかの制約を持ちます。「直列処理で、言語に依存し、明示的で、ワーキング・メモリを活用すること」です。直感のように複数の情報を並列で処理することができませんし、言葉にできないものを合理的思考に落とし込むこともできません。また、それはすべて明示されるものです。どんな情報を、どのように処理して、どんな結果に至ったかというのがつぶさに追跡できるのです。この点も直感的処理との大きな違いになります。

また、それが明示され、意識的に処理されるものであるがゆえに、ワーキング・メモリが使用されます。処理したい概念をある脳の領域が保持している間しか駆動させられないのです。私たちは空(そら)でいろいろな考えを進めることはできますが、たいていある対象について考えているときは少し前まで考えていたことはすっかり失われ、別の考えを思いついたら今考えていることが忘れられます。フォーカスが移り変わっていくのです。

こうした特徴を踏まえると、考えるために書くことが有用であることが見えてきます。

■言葉と思考

まず、合理的思考が言語の副産物とするならば、言語的表現を使うのはしごくまっとうなものだと言えるでしょう。まさにその場所こそが、合理的思考の誕生地点なのですから。

もっと言えば、単に言葉を使うだけでなく、それを「文」の形に(つまり、文法にそった形に)表す方が効果的です。文の形にすれば、直線的に表現せざるを得ず、それが合理的思考の「一つひとつ理路を積み重ねていく」形式にフィットすることになります。

逆に言えば、そのような合理的思考以外の思考(たとえば発想と呼ばれているもの)を行う場合は、同じ言葉を使うにしても、文ではなく単語やフレーズの形を使うほうが効果的であろうと想像できます。その点は、ふせんやマインドマップなどが単語をよく使っていることが良い例です。単語の並びだけでは、文法(の背後にある思考)は駆動せず、それが合理的思考からの距離を確保してくれるのです。

■異なる思考を働かせる

また、考えを書き留めておくことで、思索の範囲をワーキングメモリー以上の範囲に広げられます。より大きな対象について考えることができるようになるのです。

それだけではありません。二つの異なる思考を発動できるのもポイントです。展開と訂正の二種類です。

たとえば、何か言葉を発したあと、「いや、それはちょっと違うな」と思うことがあるでしょう。「先ほどは整理と言ったけども、整頓の方がふさわしい気がする」。そんな状態です。

そうした状態が生じることからわかるのは、私たちは何かの思考を発展させるのとまったく同じタイミングでその思考の中身を検討(訂正)することはできない、ということです。まず発展させ、その後検討する。そういう二段階のステップがあり、そこには必ず時差が生じます。

何かの発話の直後にその訂正が行われるのは、発話した直後はその内容がワーキングメモリ(の音韻ループ)に残っているからでしょう。その時差を超える発話内容の訂正がほとんど起こらないことからもそれは理解できます。

一方で、発話ではなくそれを文の形で書き留めておけば、時間を超えて(つまり、ワーキングメモリの保存時間を超えて)その訂正が可能になるのです。むしろ、発話では文法的に正しい発言を行う動機付けはそう高くないので、書き言葉の方が、より「合理的思考」に近づけると言えそうです。

■書くこと、考えること

先ほど、直感的思考において「間違い」が生じたときに、人間の合理的思考は起こり始めると書きましたが、「書き言葉」で表す行為は、まさにその動作を促してくれるのです。訂正の発見と、そこからの発展が生まれます。

何かを思いつくだけならば、空(そら)でいくらでも可能でしょう。しかし、その内容を精査し、より大きく発展させていくためには、書いて考えることが有効なのです。

逆に、ある程度論理性(合理性)を脇に置いて、話題をポンポンと展開していく上では話し言葉は有効です。書き言葉ほどの制約がないので、考えを広げていく力があるのです。

■さまざまな「考える」

以上のように、書くことは考えることに必要です。少なくとも、有効であることは間違いありません。

・空で考える
・話し言葉で考える
・単語やフレーズを書いて考える
・文を書いて考える

それぞれに特徴があり、目的によって使い分けるのがよいでしょう。逆に言えば、それぞれのやり方について一定程度習熟しておくことは必要そうです。しかし、あまりそうした訓練がなされていないのが、現代日本の社会的環境なのかもしれません。

とりあえず、「本を書く」(あるいは論文を書く)という任務を持っていない人でも、ある対象について思考を重ねていく上で、「文章を書いて考える」は有効です。合理的思考を一番アクティブに駆動することができるのが、「文」というスタイルだからです。

言葉を吟味し、文を組み立て、その文をつないでいく。

そのようにして思考を組み立てていくことが『TAKE NOTES!』で主張されていることでもあります。

(次回に続く)

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