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読む・書く・考えるのトライアングル

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~2020/05/11 第500号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

500号。

ついに500号です。

単純計算で9.6年このメルマガが続いており、あと0.4年ほどで10年目を迎えることになります。いや〜、長いですね。実感としては、あんまりそんな感覚はないのですが。

とりあえず、1000号まであと半分となりました(夢が大きい)。引き続き頑張ってまいりましょう。

もちろん、ここまで続けてこられたのも、ひとえに読者の皆様のおかげです。さすがに購読してくれる人がいない状態では、執筆活動を続けるのは無理があるので、読者の皆様の支え合ってのことです。ありがとうございます。そして、引き続きよろしくお願いします。

ということで、500号を記念して、本号はまるまる一号使って一つの記事を掲載します。タイトルは「読む・書く・考えるのトライアングル」です(普段と違って常体で書きました)。

たいへん面白い記事になったので、お楽しみいただければ幸いです。

〜〜〜「読む・書く・考えるのトライアングル」の顛末〜〜〜

本編に入る前に少しだけ舞台裏話を。

当初500号ということで、少し大きめの原稿を書こうと考えていました。メルマガ一号分を丸々使う、一万字程度の原稿です。

さすがに行き当たりばったりでその規模の原稿を書くのは難しいですから、まずはどんなことを書くのかについてアイデア出ししました。ちょうど「探求シリーズ」という企画案があったので、その中からどれかを選ぼうかと二週間ほど前から検討していた次第です。

が、それらを一通り検討した結果、出てきたのはそのどれでもない「読む・書く・考えるのトライアングル」でした。

体感としては天啓に近いものだったでしょう。突然、「そうだ、これがいい」と思いついたのです。

実際は、せっかく大きな節目だし、節目は階層を上がるちょうどいい機会なので、このメルマガのタイトルでもある「読む・書く・考える」について改めて検討してみるのが良いのではないかと思ったことと、結局その三つについて検討することは、複数個あった「探求シリーズ」のすべてに通じることだとも感じた、というところでしょう。意識してそう考えたわけではありませんが、そういう思考回路が働いていた可能性は大です。

というわけで、最初はWebツールのpostalkに「読む」と「書く」と「考える」の三項目を書き出して、何か書けそうなことはあるかなとブレストを始めたのですが、釘が壊れてしまったパチンコ台のようにあれもこれもとわんさか書くことが出てきました。

結局、一万字原稿用のアイデア出しとしてスタートしたそのブレストは、どう考えても本一冊必要な規模のアイデア群を形成してしまいました。うれしい誤算です。

といっても、それは純粋なセレンディピティではなく、私の脳が欲していた水道の蛇口だったのでしょう。これまで考えてきたさまざまなことを集約的に出せる「場」が、そのタイミングで見出されたのだと思います。

しかしまた、こうした節目でなかったら、そのような「場」を設けようともしなかったでしょう。なんだかんだといって、節目やリズムやタイミングというのは大切なものです。軽んじてしまうのはもったいないですね。

というわけで、本号に掲載した原稿は「本の一部」(具体的には「はじめに」)であるかのように書かれてます。そして、できればその本もまた現実に書き下ろしてみたいという野望が(原稿を書き終えてみて)湧いてきました。

『僕らの生存戦略』脱稿後は、それが新しい目標になりそうです。

では、前置きはそろそろおしまいにして、本編をお送りします。

今週も「考える」コンテンツをお楽しみくださいませ。

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2020/05/11 第500号の目次
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○「読む・書く・考えるのトライアングル」
■切り分けは恣意的なもの
■三つ以外の要素
■トライアングル
■ view point:「読む」
■ view point:「書く」
■ view point:「考える」
■なぜ、この三つについて考えていくのか
■何のためにこれらをおこなうのか
■さいごに

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

*本号のepub版は以下からダウンロードできます。

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○「読む・書く・考えるのトライアングル」

読む・書く・考えるは知的生産活動を構成する基本的な要素である。

本を読む、文章を書く、何かについて考える。これらを抜きにして知的生産を行うことは難しい。

当然のように、それぞれの技法を解説したメソッド本はたくさんある。近年になればなるほど、ある技法に特化した解説書が増えている気もする。つまり執筆術なら執筆術に、読書法なら読書法に、発想法なら発想法に特化した本が増えているということだ。

おおむねその方が、つまり分業的分担をした方がわかりやすいだろう。少なくとも、「この本はこれに関する本ですよ」とアピールしやすくはある。

しかし、そのような分業傾向ははたして良い方向性と言えるのだろうか。私はじんわりと、そうではないのではないか、つまり良い方向ではないのではないかという疑念を持っている。

なぜなら、この三つはつながっているからだ。「読む」と「書く」と「考える」は密接に関係してる。それらを単独で扱うのは──わかりやすいにせよ──、ある狭い領域に対象を閉じこめていることになるのではないか。

この点は、一昔前の知的生産書と最近の知的生産書の面白さの違いとしても考察できる。一昔前の知的生産書(『知的生産の技術』『知的生活の方法』『「知」のソフトウェア』)は、その著者の知的活動の全般が言及されていた。言い換えれば、さまざまな領域の話が一冊の本にまとまっていた。

こうした本は新書であるがゆえに、一つひとつの領域への掘り下げはどうしても浅くなってしまうが、その代わり領域同士の接続が立ち現れてくる。本を読むことと、ノートを書くことの接続。本棚と書斎の接続。知的生産活動の中にあるノードがそれらの本からは感じられる。

しかし、最近の単独的なメソッドの解説書では、一つのメソッドの掘り下げは十分に行われているが(それは水増しを疑いたくなるほどに十分である)、そのメソッドの外にある行為との接続がうまく立ち現れてこない。

もし、知的生産において「読む」と「書く」と「考える」のすべてが必要であり、それ以上にそれぞれがつながっていることが肝要であるならば、この状況は好ましくないと言えるだろう。

■切り分けは恣意的なもの

そもそもとして、「読む」「書く」「考える」という切り分けは、恣意的なものでしかない(あらゆる名付けが恣意的なものでしかないわけだが)。

私たちは、何かを読んでいるときに、無意識であれ何かを考えている。それは思索と呼べるほど意識的な活動ではないかもしれないが、まったく頭を働かせないということはありえない。

また、書くときにだって、考えることは避けては通れない。考えないで書く、つまり論文をコピペだけで完成させることも不可能ではないが、実際はそのコピペをどのようにおこなうかというレベルではやっぱり「考える」が行われている。

つまり、読むの内側に考えるは存在するし、書くの外側にも考えるは存在する。そして、その逆もまた然りである。

もともとこの三つの要素は、重なりある部分を持っている。それを操作しやすいように切り出したものが「読む」であり、「書く」であり、「考える」である。

そうして切り分けて、名前を与えれば、私たちはそのことについてずっと認識(ないしは知的操作)をしやすくなる。それは必要な行為であろう。

しかし、私は本稿で、その切り分けを原始的な状態に戻してみたい。「読む」・「書く」・「考える」を、一応こうして名前的に切り分けたままに、それらのつながりを示してみたいと思う。

結果的にそれらは切り分けた状態よりは分かりにくくなるだろうし、多義性が紛れ込むだろう。しかし、それこそが豊かさを回復させることにつながると思う。わかりやすく、即効性のある、しかしどの角度から見てもつまらないメソッドで行き止まりにするのではなく、捉えにくさの先にある可能性に橋を架けてみたい。

そのような活動こそが、今必要な「知的生産」ではないかと思うのだ。

■三つ以外の要素

「読む」・「書く」・「考える」は、知的生産の基本的な要素であるが、もちろんこの三つだけで完結するわけではない。

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たとえば、「調べる」という行為も大切である。「調べる」ためには読むことが必要であり、書く準備としても「調べる」は顔をのぞかせる。その「調べる」をうまくやるためには、考えることが欠かせない。結局、「調べる」もこの三つにそれぞれ接続している。

というか、「読む」・「書く」・「考える」の三つが接続しているのであれば、これらの一つに接続するものは、直接的であれ間接的であれ、その他二つにも自然に接続することになる。そういう認識でよいだろう。

もちろん「調べる」以外にも、さまざまな行為(動詞)がこの三要素の周辺をぐるぐると回っている。たとえば、それは「教える/教わる」であったり、「問う/問われる」であったり、「発見する/忘れる」であったりする。これらもまた、三要素のどれかに接続し、結局はその全体とつながっていることになる。

あるいは、行為(動詞)以外のものもある。簡単に言えば物(名詞)がそれだ。

たとえば、「本」がある。本は読むものであり、考えるものであり、(ある種の人にとっては)書くものである。ほかにも、ノート、対話(議論)、記憶/記録、知識、アイデア、疑問、本棚、書斎といった要素が挙げられる。これらもまた、三要素の全体とつながっている。

さらに一番大きな要素として、「言葉」がある。「読む」にしろ、「書く」にしろ、「考える」にしろ、それらは「言葉」を扱うものである。言葉を読み、言葉として書き、言葉で考える。多くの知的生産にとって、言葉は抜きがたい要素なのだ。言葉は、この三要素を基礎で支えるベースであるとも言える。

このことは、哲学が言葉/概念について考え、各種学問が言葉/用語を定義し(あるいはその定義を上書きし)ながら前に進んでくことと密接に関係している。どのようなレベルであれ、私たちが「読む」「書く」「考える」のトライアングル(三角形)を進めていくなら、言葉の扱いに長ける必要がある。

言葉こそがすべてとはさすがにいわない。しかし、言葉を扱う技術がきわめて重要であることは避けがたい条件である。

■トライアングル

さて、先ほど〈「読む」「書く」「考える」のトライアングル〉と表現した。三要素が関係を持っているのだから、それを表現するのが三角形であるのは自然なことである。

しかしここでは、もう少しトライアングルについて考えてみたい。

トライアングルは、英語でtriangleと表記する。tri-が「三つ」を示すもので、angleが「角・角度」を示すものだ。このangleを、日本的な「アングル」だと捉えてみる。

すると、トライアングルは「三つの観点」という意味になる。言い換えれば、「読む」・「書く」・「考える」のそれぞれの頂点に立ったときのview pointということだ。

そこからはどんな風景が見えるだろうか。

■ view point:「読む」

「読む」は、「書く」と「考える」とつながっている。

本を読むためには、まずその本が誰かによって「書かれている」必要がある。誰にも書かれていない本は読むことができない。書き手があって、読み手が生まれる。

私たちが読み手であるとき、必ず時間的に過去の書き手がそこにいる(逆に言えば、書き手は時間的に未来の読み手に向けて本を書くことになる)。読み手である私たちは、本を読むことを通して、その本を書いた著者に思いをはせることが可能となる。どんな気持ちで、どんな意図でその本を書いたのかを考えることになる。

結局「書く」と完全に切り離された「読む」は存在しないし、そこには「考える」もセットで添えられる。

あるいは、「読む」という行為そのものが、実は「考える」ことだったりする。かのショウペンハウワーは「読書とは書き手に考えてもらうことだ」と悪辣に述べているが、たとえそうであっても、そこに「考える」という行為が発生していることは間違いない。

その「考える」は、オリジナリティーのある思考ではないのかもしれない。お習字のお手本を上からなぞるようなものなのかもしれない。しかし、学びとは真似びである。誰かの思考を通して、私たちは思考の型を身につける。読書を通して、「考える」の型を身につけるわけだ。

そもそも本を(文章を、言葉を)読むこと自体が、360度どこを切り取っても「解釈」を含む行為である。書かれた言葉を「言葉通り」読むことは本当に難しい。それはまさに文学部などで徹底的に訓練されて、ようやく可能となる行為である。

日常的な私たちは、書かれた言葉を文脈によって補完することで、それを読んでいる。豊かなイマジネーションを発動させ、自分が理解できる形で理解している(それ以外にいかにして理解が可能だろうか)。

たとえば、相手が考えていることを正確に推測することをなんと呼ぶだろうか。そう、「心を読む」である。「読む」という行為には、そのような推測的跳躍が必ず伴うものなのだ。私たちは「言葉通り」に読んだりはしていない。読むとは、(無意識であっても)考える行為を伴っている。

■ view point:「書く」

では、「書く」はどうだろか。

まず、文章を書いて、「うん、よし」と納得するためには、自分で書いた文章を自分で「読む」ことが避けては通れない。場合によっては、その行為をするのは著者以外の人間(たとえば編集者)かもしれないが、ともかく書いたものは読まないと品質管理ができない。なぜなら、文章は読まれるものだからだ。

これは、書かれたプログラミングのコードが機能するかどうかは、それを実行(run)してみないとわからない、ということ同じである。コードは実行されて、その機能を確かめられる。書かれた文章は、読まれてその機能を確かめられる。

だから、書き手とは優れた読み手である。ここでいう「優れた」とは、文学的豊かさだけを示すものではない。多義的に解釈されたくない文章を書きたいなら、多義的に解釈されにくい文章かどうかを判断する「読み方」ができるといったことも含まれる。

もちろんこのことは、しっかりした文章を書くためには、ある程度「読む」行為の下積みが必要である、という話とも関わってくる。優秀な編集者かゴーストライターがいれば、読書経験が貧相な書き手でも立派な「本」はつくれるが、結局はその編集者かゴーストライターが本を読んでいるわけで、結局読むことは避けては通れないのである。

さらに、書き手は、読み手を「想像」する必要がある。結城浩氏がよく使う執筆の金言に「読者のことを考える」があるが、まさにその「考える」ができなければ、伝わる文章は書けない。ここでも、書くことと考えること密接に関係している。

もちろん、もっと根源的に書き手が何も考えていない文章は魅力がない、という問題もある。梅棹忠夫氏は知的生産を「頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら──情報──を、ひとにわかるかたちで提出すること」と定義したが、この「頭をはたらかせ」の部分が「考える」に相当する。

そうした「考える」行為は、対象をより理解する領域へと書き手を連れて行く。書き終わってみたとき、「そうか、自分はこんなことを言いたかったのか」と新しい発見をすることすら珍しくない。そのような「考えること=自己変容」を伴う書く行為を、私は「執筆」と呼んで、そうでない書く行為と峻別した。
*『かーそる 2017年7月号』収録「執筆の現象学」

ともかく、書くことは、読むことと考えることに密接につながっている。

■ view point:「考える」

では、「考える」はどうだろうか。

人は、どのようにして「考える」のか。一つには、「読む」ことを通して考えることがある。先ほど書いたように、著者の思考に触れることで、自身の思考が跳躍し始めることは珍しくない。

なぜなら、思考とは刺激に対する反応だからである。真っ白い部屋で無音の部屋に長期間閉じこめられると人は発狂するという。おそらくそうなった人間は何も「考えて」はいないだろう。

それがどのような刺激(知覚)であれ、私たちがそれを感知するとき、思考は脈動を始める。だからたくさん考えたければ、たくさん読めばいい(といっても、たくさん読めば、すなわちたくさん考えることにはならないのは注意が必要だ)。

あるいは、自分がこれから考えたい対象を小さなカードに書いて、目の前に置いておく手法をとる人もいる。刺激(知覚)を限定し、その対象に向かうように(あるいは脱線しても帰ってこられるように)しておく措置である。

さらに、これは循環的でもある。刺激を受け、何かが思考されると、その思考結果が新たな刺激となって次なる思考が生まれてくる。当然その思考結果も次なる刺激となり、とグルグルと思考は展開される。だからこそ、脱線が起こるのだし、目の前にカードを置くことにも意味が出てくるのだ。

この自らの思考による次なる思考の刺激は、文章を「書いている」ときに一番実感される。書き下ろした一文が次なる一文を呼び、それが繰り返された結論は、書き始めた自分が思ってもみなかったものになったりする。

書きながら考えることは、どこまでも脱線していけると共に、いつだってその脱線から戻ってこれる状態を作るという、両義的な意味を持っている。どちらにせよ、考えることと書くこともまた、切り離すことができない。

私たちは考えるために書き、書きながら考え、考えたことを書く。

もちろん頭の中だけで思索を進めることも可能だし、それは比類なき楽しさを持つが、あまりにそれは不安定であり、ときにハウリングを起こしてしまう。同じことを延々と、グルグルと考え続けてしまうのだ。

「書く」という有限化があるからこそ、私たちは次の一文へと、次の思考へと進むことが可能となる。

■なぜ、この三つについて考えていくのか

このように、「読む」・「書く」・「考える」のつながりについて考えるだけで、知的生産のさまざまな現象に言及できる。

加えて、ノートや本、書斎や対話など、知的生産にまつわる道具や動作をその現象に巻き込んでいける。

神秘なる宇宙を思い描いて欲しい。そこには、「読む」「書く」「考える」の三つの惑星が運動をしている。これらの三体は互いに影響を与え合い、どんなダンスを描くのかはだれにも予想できない。

その惑星の周りには、小さな衛星たちがたくさん集まっている。「本」「ノート」「対話」といった惑星たちだ。これらの惑星は、三体のダンスの中で、ときに「読む」に属したり、ときに「書く」に属したりとその居場所を変えていく。まるで、原子にくっつく電子のように、あちらこちらへと飛び回る。

そう。ここでは、完全な体系化など不可能なのである。なにせそれは三体のダンスを踊っているのだ。そのダンスのステップがどうなるのか、そこから何が生まれてくるのかは、一つひとつの宇宙で違っている。私たちの知的生産が違っているのは、その宇宙の違いと相似である。

しかし、完全な体系化ができなくても、そのダンスが何を巻き込むのかを観察することはできる。逆に言えば、そのダンスの観察は、知的生産に関わるあらゆる道具立ての記述につながる。

そうなのだ。ここまでくれば、もう「知的生産」という言葉すらもいらなくなる。あるいは、下位の階層に移すことができる。三体のダンスは、一つ上の階層にあるのだ。私たちの三体のダンスは。

■何のためにこれらをおこなうのか

これは壮大な計画である。『知的生産の技術』の中で、梅棹忠夫氏は後に続くものたちにその技術の体系化を望んだ。しかし、私は体系化を棄却した上に、「知的生産」という言葉も看板から下ろそうとしている。その上で、知的生産にまつわるあれこれを、一つのダンス(トライアングル)に巻き込もうとしている。

問題は、そのトライアングルをなぜ回すのか、という点だ。なぜ私たちは「読み、書き、考える」のか? 

功利的に考えれば、現代が情報社会だからであり、その社会では「読み、書き、考える」できる力がきわめて有用だから、という点が挙げられるだろう。これはまったくもって間違っていないことだし、また『知的生産の技術』の精神をまっすぐに受け継ぐものでもあろう。

現代において、情報を扱う技術はどのような場面であっても必要である。誰かに何かを依頼する文章を書くこと、必要な情報をWebから見つけること、自分の考えを端的に表し誰かにアピールすること。こうしたことができるのとできないのとでは、社会の中で取りうる選択肢の数が大きく変わってしまう。

しかし、はたしてそれだけなのだろうか。その功利性があるから、私たちは「読み、書き、考える」のだろうか。逆に言えば、その功利性がなくなるなら(あるいは別のもので代替できるなら)、「読み、書き、考える」は放棄しても構わないのだろうか。

私はそんな風には思えない。

かといって、教養主義を持ち出せば、すぐさまエリート主義まっしぐらである。「読み、書き、考え」ない人間をバカにし、見下す人間の誕生だ。はっきり言って、何の面白みもない言説である。

たしかに一つの側面として、情報社会の中の功利、あるいは人間性を高める教養の獲得という効能はあるだろうし、それを目標にすること自体は否定されるべきではない。ただし、それがすべてなのだと断言されれば、私には違和感が残る。

この「読む・書く・考える」のトライアングルの真ん中に書き込む言葉は、それらの文言ではない気がする。では、いったいなんだろうか。

やはりそれは「生きること」に関わるものだろう。「読む・書く・考える」の一つ上の階層に置けるものとしては、「生きること」しか思いつけない。

私たちは、知的生産を行うために「読む・書く・考える」をしているわけではない。同様に教養を得るために「読む・書く・考える」をしているわけでもない。これらは副産物であり、あるいは平行して走るものだ。決して上位には位置しない。

そうなると、残るのは「生きること」になる。しかし、私たちは「読む・書く・考える」をしなくても、生きていける。そんなことを言うと、ハンナ・アーレントに怒られそうだが、それは事実なのである。

とは言え、実際に「読む・書く・考える」をいっさいしないで生活することは無理だろうが、ほとんどそれをしないでも、少なくともそれを深めていかなくても生きていくことはできる。

では、「よく生きるため」はどうだろうか。これは一見うまくいきそうだが、エリート主義と同じ落とし穴が開いている。「よく生きるため」に「読む・書く・考える」を行うということは、それをやっていない人間はよく生きていないとなり、蔑みのまなざしが湧いてくる。この手の罠はほんとうにいろいろな場所に仕掛けられているので注意が必要である。

そうなると、「生きること」の価値は、「読む・書く・考える」とは独立して存在していながらも、「読む・書く・考える」が「生きること」に影響を与える構図を見立てればよいことになる。

簡単に言えば、それは「変化」だ。自分の「生きる」を変化させること。別の言い方をすれば、「読む・書く・考える」を通して、自分を変身させること。

その変身した結果が、善なるものである保証はどこにもない(三体のダンスは先が読めない)。結構ヤバい場所にいっちゃうかもしれない。それでも、前の自分とは違った自分になれるのは一つの可能性であり、豊かさでもある(多義性は豊かさなのだ)。そして、結構ヤバい場所にいっちゃう可能性があるからこそ、「読む・書く・考える」は注意深く行う必要があることもわかる。一冊本を読むごとに、イデオロギーが硬直していく人などはその例であろう。

もし、功利的な側面を残すなら、「読む・書く・考える」が従属するのは「よりよく生きること」になるだろう。他人と比べてではなく、ある時点の自分と、それよりも後の自分を比べて、後の方が少し良くなっていること。そのような変化を目指すことが「読む・書く・考える」の目的だと言える。

が、功利的な側面をまったく取り去り、率直にその目的を述べるなら以下となる。

「あなたの知らないあなたになる」

私たちが「読む・書く・考える」を行うのは、自分が知らない自分になるためだ。そのような変身を、止めることなく繰り返していくこと。

それはある面では、生物界における進化に似てるのかもしれない。変身した先が、「善なるもの」(≒環境に適応したもの)とは限らないからだ。

しかし、私たちは世代が交代するまで次なる変身を待つ必要がない。一つの人生の中で何度でも変身していける。変身する歩みを止めないのならば、一時的に環境に適応できなくても気にする必要はない。歩み続けていれば、ぴたりと環境にはまるときだって出てくるだろう。それは十分な成果と言える。

■さいごに

知的生産の基本要素からスタートして、最後はずいぶん遠い場所までやってきた。

「あなたの知らないあなたになる」

そのために「読む・書く・考える」のトライアングルを回す。三体のダンスを踊る。

これで本書の「何を」は確認できた。あとは、「どのように」それを進めていくかだ。もちろん、この二つは関係している。

「何を読むかと、どのように読むか」
「何を書くかと、どのように書くか」
「何を考えるのかと、どのように考えるのか」

両方は互いに作用しあっている。よって、本書の「どのように」も、「何を」に影響を受ける。

内容から言って、体系的にまとめるのはほぼ絶望的だ。きれいに整理することなどは不可能で、あちらこちらに重複や因果のほつれが顔を出すだろう。しかし、「この本はそういうものだ」と割り切ってしまえば、その点は問題にならない。

また、「わかりやすく、順番に」書くことも望むべくもない。これは階段状に進むプロセスではないからだ。もちろん、ある場面だけを切り取れば、そこに階段状のプロセスを見出すことは可能である。しかしそれは、すでに巷の書籍でたくさん行われていることだ。本書は、それとは別のアプローチを試みたい。

さいわい三要素の連続性によって、どこから始めたとしても、結局はすべての場所につながっていることが期待できる。だから、「わかりやすい順番」さえ諦めれば、どこからだって始められる。それは、「読む・書く・考える」のどこからでも、このダンスを始められることに相当している。

よって本書は、つながりのリンクをたどり、断片的かつ連続的に話を進めていく。まっすぐな歩みには決して見えないだろうが、そもそもダンスとはまっすぐな歩みのことではない。舞台の上を巡りながら、一つひとつのステップを確認していく。

あるいはそれは旅に似ているのかもしれない。

いずれ出発点に帰ってくる旅に。

自分が知らない自分として帰ってくる旅に。

(おわり)

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○おわりに

お疲れ様でした。本編は以上です。

ひさびさに何の抑制もなく、ただ自由に思考を展開してみました。こういう本が書かれたらきっと楽しいと思います(思いませんか?)。このメルマガやシゴタノ!、そしてR-styleなどを通じて、この本の本文となる文章を少しずつ書き出していければよいなと計画中です。あと、『僕らの生存戦略』の第一章は上がりましたが、まだレビューアさんを募集するシステムについて固まっていなかったので、その話は次回にしたいと思います。

それでは、来週またお目にかかれるのを楽しみにしております。

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