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セルフスタディーズのススメ/セルフスタディーズの進め方

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求~ 2021/10/25 第576号

○「はじめに」

大学生向けのサイト「大学授業一歩前」に寄稿させていただきました。

大学生に向けて偉そうなことが言える立場ではないのですが、自分の経験を踏まえてアドバイスらしきものを書いております。

〜〜〜デイリーメモアプリ〜〜〜

メモアプリのアイデアを思いつきました。

そのアプリを起動すると、まずメモの入力画面が表示されます。開いているのは「その日のページ」です。最初に書き込むときは白紙の状態ですが、次回そのアプリを開くと、前回書いたメモの続きから書くことになります。

ここまではごく普通のメモアプリですが、ポイントは日付の変更です。日付が変わって、そのアプリを立ち上げると、また白紙の状態から始まるのです。開いているのが「その日のページ」だからです。つまり、一日ごとに保存されるページが自動的に移り変わっていく、というのがこのアプリのポイントです。

こうすれば、ユーザーが何も気にしなくても、メモが「日ごと」にまとまってくれます。ようするに、日記アプリのようなUIのメモアプリ、ということです。

私はこれまでいろいろメモツールを使ってきたのですが、大別すると以下の三つに分かれます。

・一つのファイルに連続的に書き込んでいく
・自分の操作でファイルを切り替え、そこに書き込んでいく
・独立して書き込みを行うと、それを「データベース」に追記してくれる

一番多く使っていたのは三つ目の「独立書き込みタイプ」(たとえばFastEver)なのですが、このタイプは入力が手軽な分、書き込むときに直近の書き込みが目に触れないデメリットがあります。

一方で、直近の書き込みが目に触れるようにと一つのファイルに連続的に書き込む方式を選ぶと、今度は時間が経つにつれファイルが「縦長」になってきて、しだいに嫌気が差します。かといって、それを日ごとに自分で別ファイルに分割するのは面倒なのです(わがまま)。

だから、アプリが日付を見て、勝手に新しいファイルを作成してくれたら、「連続的であり、分割的」なメモが実現できるのではないかと考えた次第です。

ちなみにこれは、Roam Researchがばっちり実装してくれているのですが、RRは「手軽なメモツール」としての機動力を持ち合わせていないので、やっぱり独自のメモツールが欲しいところです。

〜〜〜Scrapboxの素晴らしい点〜〜〜

Scrapboxは、本当に素晴らしいツールです。使いやすさがハンパではありません。

しかし、です。

何か具体的な機能一つが、「素晴らしく使いやすい」のではありません。ツールを使う上で必要になる、細かく、たくさんの機能が、隅々まで行き届いた「使いやすさ」で構成されているのです。

だから、非常に陳腐な表現ではあるのですが、その「使いやすさ」は使ってみないとわかりません。もっと言えば、Scrapboxにせっせと書き込みを続けないとわかりません。そういう具体的な動作をするときに、「こうなっていると嬉しい」と感じるまさにその通りに実装されているからです。

リンクベースで情報を接続していく、という使い方であれば、Scrapbox以外にも、Roam ResearchやObsidianがあります。特にObsidianはプラグインの拡張があり、自分好みにツールをカスタマイズできる楽しさもあります。

しかしながらScrapboxは、もうそれ単体で使いやすく仕上がっています。Scrapboxにできること以外のことはできませんが、その「できること」を一番うまくこなしてくれるのです。

たぶん一つひとつの機能を取り上げれば、「他のツールでもできるじゃん」と思われるでしょう。たしかにそれは間違っていません。しかし、そういう還元的な評価では捉えきれない良さが、Scrapboxにはあります。

カード・リンク式に慣れない人は使いづらいでしょうが、カード・リンク式をやりたいならば(そして、ローカルファイルにこだわらないならば)一番の選択肢である、と個人的には思います。

〜〜〜浮沈式プロジェクト管理〜〜〜

ふと気がついたのですが、私は結構「浮沈式プロジェクト管理」をやっています。

浮沈式プロジェクト管理とは何か。

倉下が錬成した概念ですが、ようは次のようなプロジェクトの進め方です。

思いついたらちょっと手をつけて、飽きたら放置する。時間が経って、再びやる気に日がついたら、そのプロジェクトを「引っぱり上げて」着手する。でもって、飽きたら放置する。以下繰り返し。

つまり、「プロジェクト」を作り、それに期限を決めて、期限内に達成するように作業を日割りで割り振っていく、という進捗スタイルではなく、「気が向いたときにやる」というざっくばらんなスタイルのことです。おそらく、フリーランスならではの進捗スタイルではあるでしょう。

このスタイルの良いところは、「いやいや作業を進める」が起こらないことです。常にやる気100%で取り組めます(やる気100%のものだけに取り組んでいるのだから必然です)。

ただし、いつ完成するのかはまったくわかりません。そもそも完成するのかも未知です。よって、書籍原稿の執筆にはこのやり方は使えません。そうしたものについては、「締め切り」が重要になってきます。

ちなみに、浮沈式プロジェクト管理においてもっとも大切なことは「記録を残すこと」です。記録さえあれば、三ヶ月放置していたプロジェクトでも、すぐさまに「引き上げる」ことができます。これもノーティングの力です。

〜〜〜何かに似ている〜〜〜

本を書くときによく起こること。

頭の中にある「理想の原稿」に導かれて書きはじめるが、自分が書き出せる原稿はそれとはほど遠いものであると知る。そうした「残念な原稿」となんとか折り合いをつけながら、それでも諦めるのではなく少しでもよい原稿になるように推敲を重ねていく。

これって何かに似ていますね。

倉下は「生きること」が真っ先に思い浮かびました。皆さんはいかがでしょうか。

〜〜〜「わかりやすい」は含まれていない〜〜〜

倉下の執筆のモットーは、「読みやすく、面白く、役に立つ」本を書くことです。

で、よくよく観察すると、ここには「わかりやすい」が含まれていません。一般的に「わかりやすい」文章を書くことが大切だと言われるのですが、それはモットーにはないのです。

もちろん「わかりやすさ」は大切です。わかりにくい文章はそもそも読んでもらえません。一方で、「わかりやすい」を達成することがモットーであれば、内容をそれに合わせることも可能です。つまり、わかりやすく書けることだけをテーマにすれば、その指標は簡単に達成できてしまうのです。

それってちょっと「面白く」ないですよね。

内容的に難しいものが含まれているかもしれないが、一つひとつの文の意味は取れるし、続きも読んでいける。そういう可読性の高さがあれば、少し難しい内容であっても、理解することができるのではないでしょうか。少なくとも、その助けにはなるでしょう。

読書の面白さの一つに、「わからなかったことがわかるようになる」があるわけで、「はじめからわかっていること」を並べて「わかりやすさ」を構成するのは少しイージーモードという気がします。

もちろん、イージーモードでゲームをプレイすることに問題があるわけではありませんが、この仕事を自分が楽しんで続けていくためには、最低でノーマルモード、可能であればハードモードでプレイしたいと考えています。

〜〜〜Q〜〜〜

さて、今週のQ(キュー)です。正解のない単なる問いかけなので、頭のウォーミングアップ代わりにでも考えてみてください。

Q. 「何かに似ている」は、何に似ていると感じましたか。

では、本編をスタートしましょう。今回は10月号の最後として、ここまで書いてきたことのまとめをお送りします。

○「セルフスタディーズのススメ」

10月の連載で書いてきたのは、広い意味で「自分について知ること」でした。

自分についての理解を深めること。

そのような理解を意識的に求めていくことを、私は「セルフスタディーズ」と呼んでいます。『すべてはノートからはじまる』でも、一番最後に言及しました。書くことを通して、あるいは書き続けることを通して、自分のことを知る。そういう効果がノート(ノーティング)にはあるわけです。

逆に言えば、私たちは通常状態では「自分」についてほとんどまったく知らないわけです。日常生活を送る上で問題ない程度の自己理解はあっても、その自己理解は十全ではありません。私は、私にとって未知を含むのです。だからそれを知ろうとする。それがセルフスタディーズです。

■自分についての研究

セルフスタディーズは、「自分探し」ではありません。世界中を旅して、「自分」を見つけるのとはちょっと違っています。そうした自己発見は、究極的には「今の自分」について不満があり、それとは違う「自分」に移り変わりたいという変身願望でしょう。世界中を旅して発見した「自分」が、それまでの「自分」と全然変わらない、という事実だったら、その人はひどくがっかりするでしょうし、なんならその結果を認めないかもしれません。

それは「研究」の態度ではないでしょう。

セルフスタディーズは、自分で行う、自分についての「研究」です。studyは、「勉強」の意味もありますが、「研究」の意味もあります(というか、日本語の「勉強」の語感がかなり独特なのかもしれません)。そこでは、研究的態度が求められます。

研究的態度とは何か。

結果を決めつけないことです。結論ありきで話をはじめるなら、それは研究とは呼べないでしょう。開いた心と、忌憚なき意見によって、「その対象」に迫っていく態度こそが、研究的態度です。

「自分はこういう人間だ」という思い込み/こだわりから抜け出ないなら、研究は進みません。偏見の井戸の周りをグルグルと回っているだけで終わるでしょう。

同時に、望ましい結果でなくても、それを受け入れる必要があります。「実験して、期待と違った結果が出たけど、無視しよう」というわけにはいかないのです。「期待と違った結果」もまた、重要な結果として受け入れ、そこから次の歩みを進めること。それが大切になります。

このあたりが、いわゆる自己啓発的な「自己発見/自己実現」との大きな違いでしょう。

そうした文脈で語られる、発見されるべき「自己」像は、基本的に素晴らしいものです。人格的に非の打ち所のない人間像がそこでは描かれます。よく言いますが、タスク管理においては、「アダルトビデオのセールをチェックする」のような行為をタスクリストに入れる、みたいなことはしないわけです(そういう仕事をしていないのであれば)。

別に入れたって構いませんし、原理主義的に考えるなら入れるべきですらあるでしょう。でも、通常の発想ではあまりそういうことは行われません。

それは「わざわざ管理する対象」ではないと感じており、ひいては「そうした行為を可視化したくない」からでしょう。秘めたところに置いておきたいのです。自分の内側にありながらも、社会的な「真っ当さ」を持ちえない対象だという認識があるからでしょう。

自己啓発における人格主義も同様です。

そうした自己管理においては、目指すべき目標は人格的に素晴らしいものです。いわゆる「ビジョン」や、「ミッション・ステートメント」も、素晴らしい理念が語られるでしょう。「こうありたい自分像」が目標にセットされ、その自分像は間違いなく胸を張って他人にアピールできるものになっているはずです(自己啓発中毒の人ほどそうでしょう)。

もちろん、そのような行為が悪いというわけではありません。しかし、自分の中にある「外に見せたくない」ものは無視されるか、ないしは抹消されることが要請されるのです。部分的な自己疎外がそこで生じてしまっています。

自己啓発とセルフスタディーズとの違いはこの点にあります。

その行為を「研究」として行うならば、どれだけ残念な「自分」がそこで発見されても、大切なものとして扱っていかなければなりません。無視したり、疎外したりしてはいけないのです。だって、そうしたものを含む全体が「自分」なのですから。

この点は、「自己啓発の弊害」に関する論考において発展させていきたいポイントですが、「素晴らしい理念」を見つめ続けるあまりに、「残念な現実」がことごとく無価値に感じられてしまう影響がたしかにあります。それは、部分的にであれ自分を貶めることであり、ひいてはそのまなざしを他者にも向けてしまう弊害をも持ちます。

メルマガ574号の「そこにあるかもしれない悲劇」に以下のように書きました。

つまり、自分が「変身」を遂げることで、他者へのまなざしも「変化」してしまう(なぜなら他者も「変身」しているのかもしれないのだから)──そうした内外のどちらにも向けられた変容が「来るべきバカ」では提示されています。もっと言えば、根源的な変化は内外どちらか一方だけに起こる、ということはないのです。真なる変化は、内外どちらにも生じるものである。そんな風に言ってみてもよいでしょう。

自分と、他者へのまなざしは共に「変身/変化」する。この二つはつながっています。上では良い方向の変化が記述されていますが、もちろん悪い方向でも同じです。自分の中にある「残念さ」を軽蔑するならば、同種の「残念さ」を持つ他者を軽蔑することに容易に接続します。「接続する」というか、それは同時に起こるのです。同じコインの裏表、ということです。

これが、いわゆる「意識高い系」という人たちが、あまりにも周りの人を軽んじてしまう一つの理由でしょう。その人達は、「理念/理想」にフォーカスしすぎて、それ以外の要素が疎外されているのです。端的に言えば、人間が見えていないのです(当然、「自分」も見えていないことになります)。

また、自分の規範に厳しい人が、他者にも厳しいまなざしを向けるのも同様でしょう。自分の「ダメな部分」を許容できないならば、他人の「ダメな部分」も許容できないでしょう。「人間({自分、他人})とはそういうものだ」という考え方にはなっていないからです。その意味で、自罰的と他罰的もコインの裏表です。「自分なんかダメなんだ」というその気持ちが、その「ダメ」さを他者に見出した際、罰する(許せない)気持ちとして湧いてきてしまうのです。

そこで、そうした気持ちを「解体」するために、「理念/理想」的なものを捨てましょうという形のアンチ自己啓発が出てきます。言説界も一つの系なので、ある作用に対して反作用が生まれるのが面白いところですが、結局それも形を変えた自己啓発でしかありません。ある方向に「自分」を寄せようとしているからです。

なぜかと言えば、その「理念/理想」もまた「自分」が持ったものでしょう。それを「捨てろ」と呼びかけるのは、結局(理念には見えない)理念を提示しているに過ぎません。堂々巡りです。

「いや、そういう理念は他者から押しつけられたものにすぎない。それを捨てることで"本当の自分"になれるのだ」

という反論が予想されますが、そもそも人間存在は基本的に「他者から押しつけられた」ものでできています。今こうして私が書いている日本語は、私が選び取ったものではありません。言語によって、思考の性質がもし変わりうるならば、そうした思考の性質もまた「他者から押しつけられた」ものでしょう。生まれ育った時代や環境も「他者から押しつけられた」ものですし、なんなら生命それ自体が「他者から押しつけられた」ものにすぎません(少なくとも、自分の意識にとってはそうでしょう)。

よって、「他者から押しつけられた」ものだから、それは「本当の自分ではない」の理路は、突き詰めると「自分」を解体せざるを得なくなります。あるいは「魂」のようなイデア的なものを仮設するしかなくなります。

だいたいにして、この「本当のhogehoge」という言葉が危うさを持つ言葉です。何が本当で、そうでないのかを決定する審級が関わってくるからです。その審級に関する検討をすっ飛ばして、他のものを蹴落とすために「本当の」が使われているときは、ぎゅっと眉をひそめてその文章を読んだ方がよいでしょう。

と、かなり脱線してしまったので、ぐいっと本線に戻りますが、仮に「理念/理想」が「他者から押しつけられた」ものであるにして、一体何が問題だというのでしょうか。

「他者から押しつけられた」理念であっても、自分がそれを良いと思えるなら、それは一つの事実です。

また、自分がつい「他者から押しつけられた」理念に引っ張られてしまう性質があるとして、それもまた一つの事実です。

話は、その「事実」の確認からスタートするはずです。

たとえば、「他者から押しつけられた」理念に引っ張られてしまう性質がある、が、別に困っていないからこのままでいい、という判断がありうるでしょう。逆に、ちょっと引っ張られすぎているから変えたい、という判断もあるでしょう。まず、事実の確認があり、その次に判断があります。

しかしながら、「他者の理念に引っ張られてしまう自分はダメだ」、というのはもうすでに価値判断が入っていまず。「自分」の中に「他人」のものが入っているのはダメなことだ、というのも同様です。純然たる事実に向き合っているのではなく、ある価値基準を通した結果としての判断が行われているのです。

別にそれ自体は構わないのですが、アンチ自己啓発は「いかにも自分たちは何も価値判断していません」という態度を取るので、そこに欺瞞があるわけです。何が良いか悪いのかは、もうすでに決まっていて、それに沿う内容が提言されているのです。

■そこにある事実として受け入れる

自分がどのような性質を持っているのかを、価値判断をせずにまず受け入れること。その上で、不都合が多いなら、それを変えていくようにすること。そうでないなら、そのままの状態にしておくこと。

そうした道行きが、セルフスタディーです。「本当の自分になろう!」みたいな提言は、こうした歩みとはまったく違っています。どれほど愚かしい性質が出てきても、まずそれを(価値判断をせずに)受け入れることが「研究」では必要だからです。

たとえば、昆虫の研究をしている人は、カマキリよりもカブトムシが「偉い/良い」などとは記述しないでしょう。個人としての好き嫌いはあるにせよ、すべての昆虫は「昆虫」を構成する一要素でしかありません。そうした虫たちのうち、人間の生活にあまりに害が大きいものは「害虫」として扱われ、駆除されてしまいますが、だからといってその虫が、本質的に「悪/ダメ」なわけではありません。「人間の生活」というコンテキストと齟齬が生じてしまっただけの話です。

セルフスタディーでも同じです。自分について理解を深めることは、自分の中にある限定的な物差しで「自分」を判断し、それに叶うものだけを採用していくプロセスとは違います。あらゆる良い(と思える)部分と、あらゆる悪い(と思える)部分の総合として、「自分」を捉えることです。

さらに言えば、その「研究」には終わりというものがありません。自分の中には常に「未知」の部分が残り続けます。これは「自分」をわかったつもりにならない、という一種の警句としても機能します。

「自分」はどのような性質を持つのだろうかと好奇心を持ち、その結果をまずは引き受けること。自分の能力が劣っていることを卑下する必要はありませんし、つい卑下してしまうならば、「つい卑下してしまう自分」を事実として受けとめること(その「自分」を卑下しはじめたら無限の連鎖が始まります)。

もし何か変化を求めるなら、そうした「自分」を受けとめた上でスタートすること。

これがセルフスタディーの在り方です。

では、そのセルフスタディーの「実践」はどのように進めればいいでしょうか。それが後半のテーマとなります。

(下につづく)

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