第二十一回 ファストコンテンツからコンテンツファーストへ(2)

前回は、ファストフード産業とその変化について書いた。

ある環境に最適化し、大きな業績を上げている企業でも、環境そのものが変わってしまえば力は発揮できず、さらに過剰な最適化のせいで次の変化にうまく適応できない。そんなお話だった。

さて、本題であるメディアに話を移そう。

ちかごろのコンテンツ、特にウェブコンテンツは明らかにファスト化していた。質は気にしない。ともかく値段(無料)や量で押していく。そういうスタイルのメディアが増えていたのではないだろうか。

これをファストフードになぞらえて、ファストコンテンツと呼ぶことにしよう。

その勢いを後押ししていたのは、言うまでもなくPVである。あるいはPVを背景とした広告収入と言って良いだろう。無料のコンテンツを流し、ともかくクリックしてもらう。それがバズれば大きな結果(主には収入)という形で返ってくる。

そこでは文章がきちんと読まれているかどうかは気にされない。だから、質が考慮されることもほとんどない。恐るべきことに、内容の正確さすらそこでは軽んじられる。そんなことはどうでもいいのだ。

むしろ、正確さを求めるためにコストをかけると、収益が悪化してしまう。正確だからと言ってPVが稼げるわけでもなく、むしろ不正確な方が炎上してアクセスが稼げる可能性があるのだ。

なんとなく、この辺にファストフード業界における「食の安全」問題と近しい導火線の匂いがぷんぷんと漂ってくるだろう。

まとめ系のサイト、あるいはいわゆるバイラルメディアと呼ばれるサイト。そうしたものがファストコンテンツの最大の体現者であると言っていいだろう。それに近しいブログもわんさか生まれているのが現代の日本の情報社会である。

そうした状況に最適化しようと思えば、ともかく数である。数百円、ひどいときには数十円や無料でライターに記事を書かせ、それをあらゆる方向に向けて発信する。結構、結構。大いに結構。

しかし、それは最適化しすぎてはしないだろうか。次の変化に適応できるぐらいの余地は残っているだろうか。

コンビニ業界に目を戻せば、一時期PB(プライベートブランド)による低価格路線が盛んだった。自社開発した商品群を並べることで、低価格ながらそれなりの利幅を得られるというものだ。セブンが先導し、他のコンビニがこぞって後追いをした。結果的にPBはもう何一つ珍しいものではなくなった。そうなればもはや差別化要因ではない。

また、低価格を実現するために、どうしてもNB(ナショナルブランド)商品に比べて味やボリュームが今ひとつだった、という問題もある。珍しいうちはそれでも売れていたが、熱気が静まればそうでもなくなる。結果、客単価を落としただけ、という悲惨な状況もあった。

目端の利くセブンは、セブンプゴールドという次の手を打ってきた。PB商品なのだが別に安くない。むしろ、高い。その分、味はたしかで、バリエーションも豊富だ。

安かろう悪かろう、というよりも「安かろうそんに悪くはなかろう」に飽き飽きし始めていた消費者のニーズにそれがぴたりとはまった。

セブンの日販(一日の売上げ)が、日本の他のコンビニに比べてずば抜けて(対ファミリーマートでも10万ほど)高いのは有名な話だが、安売り路線に過剰に最適化していたのなら、こんな変化はきっと起こせなかっただろう。

まったく個人的な意見だが、バイラルメディアと呼ばれるものの力は落ちてきている気がする。人々に耐性が付いてきたのかもしれない。すでにバイラルメディアの名前が見えたらURLをクリックしない、という人もそこそこいるのではないだろうか。

もちろん、ウェブ全体は大きく、さらに新規参入者もいるので、まったく耐性が付いていない人もいる。そういう人たちはまだまだバイラルメディアに触れるだろう。しかしそれも時間の問題ではないだろうか。「暇つぶし」にしてもクオリティーの低い記事が多すぎる。あるいは感情的な、あるいは不正確な情報が多すぎる。

また、Web広告における広告料の単価もきっとそれほど賑わってはいない。その代わり記事広告やそれっぽい怪しいものにお金が流れている。最近では有料noteで稼ごうという声や、有料サロンで儲けようという声も聞こえるようになった。ブログの広告収入だけでものすごく儲かるなら、こういう声は上がってこないだろう。徐々に変化の兆しは現れているのではないだろうか。

たまに見かける米国のメディアサイトでは、longformと呼ばれる長大な、あるいは専門的な記事がある。これがまあすごい。明らかに他のサイトとの差別化要因としても働いているし、読者との信頼関係の構築にも役立っているだろう。

ではたとえば、そういう記事を数十円で発注できるだろうか。まず無理である。

もちろん、たとえわずかでもお金を払えば書いてくれる人はいるだろう。が、長文は書くのも大変だが、それ以上に読ませるのが大変である。こういう言い方をするのはどうかと思うが、腕のない書き手にはまず無理だ。

もし今後、「記事広告」と呼ばれる手法が一般的になっていくなら、それなりの文章を書けるライターが必要になってくる。個性があるとまでは言わないが、何かしらフックがある文章が書けるレベルのライターが必要になる。

ファストコンテンツに過剰に最適化してしまっていれば、おそらくそうしたライターを惹きつけることはできないだろう。もちろん、自身でライターを育てていないので、自前で出すこともできない。

そんな風にして変化の階段に躓くメディアが、これからいくつも生まれてくるだろう。

では、その変化にどのように対応すればいいのか。それについては次回に書いてみよう。

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