第十九回 断片化の進行と関係性の醸造

FacebookやTwitterでは、たまに「いい話」が流れてくる。結構なことだ。

しかし、そうした話がまったくの事実無根だったり、かなり「事実の厚化粧」をしていることがある。要はねつ造だ。

それに対して、「ねつ造は良くない」という意見もあるし「感動してるんだから、水を差すなよ」という意見もある。私は前者だが、まあ、それはどうでもいい。

少なくとも、私たちは小説という虚構を、つまりねつ造されたお話を読んで感動しているのだから、いい話をでっち上げても構わないじゃないか、という反論は組み立てられるだろう。たしかにコンテンツを消費している、という点で見ればそれは同一である。

そして、私はその同一性が気になっている。

たいていの場合、そういう「いい話」の発信元は、どこかのバイラルメディアである。他になんと表現していいのか分からないのでこう呼んでるが、短くて感情的な反応を引き起こしやすい記事やら、速報系のニュースが頻繁に発信されていることが多いメディアのことである。

さて、視点を変えよう。

たとえば、朝日新聞や産経新聞なんかに、作られた「いい話」が紙面を飾っていたら、あなたはどう思うだろうか。それをうっかり信じて他の人に話したあげく、「それって、作り話だよ」と指摘されたら、そうとう恥ずかしい思いをするのではないだろうか。そして、「なんて新聞だ!」と怒るのではないだろうか。もっともな怒りだ。

もしも作られた「いい話」が、小説欄に載っているのならば、あなたはそれを作り話だと認識し、そのように処理する。しかし、普通に紙面を飾っているなら、それを「事実」と認識するだろう。

この二つには大きな違いがある。

しかし、先ほど指摘した同一性には、これがない。なぜだろうか。

一つ考えうる仮説として、そのような情報摂取においては、断片化が進行しているのではないか、というものがある。

ある情報を見るときに、それがどこに載っているのかをあまり気にしないのだ。元々バイラル・メディア自体が、そのような指向性を持っている。記事自身が一人歩きして広がっていくようなイメージだ。「どこが発信した情報か」は、そこではあまり問われない。

記事一つひとつだけを受け取り、そこで消費しているから、「新聞の紙面にねつ造された話が載っている」ような嫌悪感・拒否感が起きないのだ。

ではこれは、一体何を意味するのだろうか。

断片化が進むということは、コンテキストが欠落する、ということだ。もう少し言えば、発信元が持っているコンテキストがはぎ取られ、ソーシャルでの流通におけるコンテキストが添付されると言ってもいい。そして、それは基本的に発信側からはコントロールできない。

目的がPVだけである場合、発信元(つまりメディア)が持っているコンテキストが欠け落ちても構わない。一人歩きした記事たちの合計のPVがメディアのPVとなるからだ。

しかしながらそこには、「○○に書いてあるから」といった読者との関係性は構築されない。

もちろん、それでもいいというスタンスもあるだろう。しかし、一過性のPVを絶え間なく量産しなければいけない事態から逃げない、という覚悟は最低限必要になるだろう。

関係性のポイントは、それが時間と共に深まることだ。そして、それは「蓄積していくメディア」としてのブログと、異常なほど親和性がある。だから、ブログは継続してナンボなのだ。

ここで一つの着想がある。

瞬間的な話題をかっさらう記事ならば、はじめたばかりのブロガーでも、歴戦のブロガーでも同じ舞台に立つことになる。なぜならば、そこにはコンテキストもないし、読者との関係性もないからだ。しかし、瞬間的な話題をかっさらう記事は、であるがゆえにメディアのコンテキストに寄与しない。それは積み重ならないのだ。

ちょっとぞっとする話ではないか。

野球で言えば、1イニングか2イニングぐらいは互角に(あるいはそれ以上に)戦える。でも、回が進むにつれ彼我の差は徐々に大きくなっていく……。

最初にうまくいく方法と、続けて成果が出る方法は、同じでない可能性がある。短期的な視点ではまず見えてこないが、これは結構致命的な問題である。「コツコツ続ければ」と思っていたものが、実は何の積み木にもなっていなかった、ということもありうるのだから。

短いスパンで確かな成果が出したい、という気持ちは誰にだってあるだろう(だから詐欺被害がなくならないのだ)。しかし、短期的なスパンで結果が出るものは、後からやってくるすべての「はじめたばかり」の人間に開かれているのだ。つまり、徐々に競争は厳しくなってくる。

それでいいのだろうか。

昨今よく目立つのは、断片化されつつある情報摂取の流れにうまく乗ることだ。でも、長期的に見て、それは本当に良き方法と言えるのだろうか。それについては、じっくり考える必要があるのではないだろうか。

しかし、自分自身が断片的に情報摂取していると、じっくり考えることすらできなくなってしまう可能性もある。怖い話だ。

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