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「ポッドキャストとヴォイス」/短縮号

Weekly R-style Magazine ~読む・書く・考えるの探求〜2020/02/17 第488号

はじめに

はじめましての方、はじめまして。毎度おなじみの方、ありがとうございます。

先週紹介した往復書簡企画、堀さんからのご返事をいただけました。

リストは思考を飛躍させる「輝ける雲」である (往復書簡 No.2)
https://note.com/mehori/n/n65625383960f

いや〜、実に楽しいですね。ここから私がどう切り返していくのかが見所です(自分で言う)。

あと、こうして「往復書簡」していくことの現代的な意味についても、音声記事の投下がありました。

◇あえて遅いメディアを選ぶこと|ほりまさたけ|note
https://note.com/mehori/n/n63c10d502632

このへんについても、私なりに何か書いてみたいと思っています。往復書簡企画とともに、楽しみにしてください。

〜〜〜今週のご連絡〜〜〜

先週はたいへん体調が悪かったので、今週号は短縮号でお送りします。

体調不良については、二つ目の連載で書いていますので、ご興味ある方はご覧ください。ご興味ない方はスルーがよろしいかと思います。

というわけで、さっそく本編にまいりましょう。

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2020/02/17 第488号の目次
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○「ポッドキャストとヴォイス」 #知的生産の技術

○「心療内科に行ってきた」 #エッセイ

※質問、ツッコミ、要望、etc.お待ちしております。

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○「ポッドキャストとヴォイス」 #知的生産の技術

文章に宿る個性は、「文体」などと表現されますが、それがより強いものになってくると、「声(ヴォイス)」などと呼ばれたりします。著者の精神が、読み手に直接訴えかけてくるかのような、空気の響きを伴う文章。それがヴォイスがある文章です。

あるいは、文章の奥底にある著者の魂の響き──それがその文章におけるヴォイスだと表現することもできるでしょう。

イメージしやすいのは、実際の話し声を知っている著者が書いた文章を読むときです。その際に、まるでその著者本人が読み上げているかのように脳内で音が聴こえることがあります。間やイントネーションが、著者の話し言葉と一致するかのように、文章が「聞こえて」くるのです。

もちろん、すべての文章でそのような現象が起こるわけではありません。私の経験則からすると、話し言葉と書き言葉のスタイルが近しい著者ほど、そうした現象が起きやすいと言えます。
*私はバリバリ乖離しているので、あんまり起きないのではないかと仮説を持っています。

ようするに、脳が記憶にある書き手の声を「流用」して、文章摂取の際に役立てているのでしょう。

逆に言えば、実際の声を聞いたことがないのに立ち上がってくる文章のヴォイスがあるのだとしたら、その文章には、伝えたい内容以上(+α)の情報が込められている、ということなのでしょう。

もちろん、そうした文章を書き上げるのは、簡単なことではありません。文章に個性を宿らせるのは、なかなか難しい行為なのです。

■話言葉では?

一方、話し言葉はどうでしょうか。話し言葉では、簡単に個性が宿ります。

私がよく聴いているいくつかのポッドキャストでも、みなさん個性的な「声」で話しておられます。冒頭に自己紹介がなくても、誰が誰なのかは簡単に聞き分けることができるでしょう。

そもそも、文章の強い個性を表すのに、「声(ヴォイス)」という比喩が用いられていることからして、これは自明なことです。

声はさまざまなことを伝え、受け手はそこに内容以上のものを見出します。先週号で紹介した「ポッドキャストは感情が乗せやすい」というのも、この点が関係してきます。

たとえば、文章で「ありがとうございます」だとしても、それが棒読みなのか感動の涙を伴っているのかで、まったく違って聞こえてくるでしょう。逆に言えば、文章で「ありがとうございます」以上の情報を伝えようとする場合、前後の文脈で汲み取れるように何かを付け足すか(あるいは削るか)、フォントサイズを10倍にする、といった手段を用いなければいけません。

文章に「声」を宿らせるのは簡単ではない、というのは、つまりそういうことです。

■何が違う?

ここまでの話からすると、「バーバルコミュニケーションとノンバーバルコミュニケーションだったら、後者の方が情報量が豊かだよね」という流れに持っていきそうになりますが、私が目指したい方向はそちらではありません。

私が気になっているのは、話し言葉なら簡単に個性が宿るのに、なぜ書き言葉だとそれが難しいのか、です。

情報量に差があるから、は答えにはなりません。情報量が少ないなら、それを増やせばいいからです。

先ほどは、「文章に個性を宿らせるのは、なかなか難しい行為なのです」とお茶を濁しましたが、「なぜそれが難しいのか」こそが考えたいテーマなのです。

■個性的な文章

なぜそれが難しいのか?

練習をしてきていなから、というのが私の考えです。

振り返ってみてください。義務教育から高等教育に至るまで、「自分の個性をそのまま出した文章」を書く練習をどれだけしてきたでしょうか。ほとんど皆無ではないでしょうか。

読書感想文はテンプレかあらすじをなぞるだけ。小論文でも、「このように書く」というスタイルを守ることが求められる──逆に言えば、個性的な文章は求められていないばかりか、いっそ(暗黙的に)禁止されているとすら言えるかもしれません。

そんな環境で過ごしてきた人間が、さあブログで文章を書こうとしても、個性が乗った文章になるはずはなく、むしろ「ブログというのはどのようなスタイルで書くのが〈正しい〉のか」という模索を始めるのではないでしょうか。

この話を敷衍すれば、日本の<公>においては個性の発露は無用の長物である──たとえば画一的なリクルートスーツと型通りの面接の受け答え──みたいな話に飛躍できそうですが、それはさておくとして、長年練習してきていないから、文章に個性を乗せるのが難しい(≒慣れていない)という点は、一考に値するでしょう。

さらに言えば、ジェラルド・M・ワインバーグ は『ワインバーグの文章読本』の中で、作文の授業はひどく退屈で成績も悪かったが、自分の好きなことを自分の好きなスタイルで書くようになったら、先生から特別な評価がもらえたし、自分でもそれが好きになった、と書いていました。ここでは長年の練習すら顔を出していません。単に、それまでの束縛から解放されたところに楽園があった、というだけの話です。

この話は、以前書いた「文章はきちんと書かなければ」という気持ちから生じる固さとも通じているでしょう。「自分の好きなことを自分の好きなスタイルで書く」という行為は、「文章をきちんと書く」行為とは対比的です。ある規範性に従うことからの逸脱。そういうところに、楽しく文章が書け、さらに個性的な文章が生まれる秘訣がありそうです。

まとめておきましょう。

話し言葉において、「このように話さなければ」という話し方のスタイルにはあまり強い規範性は働いていません。よほど厳格な家庭でない限り、話し方を固定・強制されることはないでしょう。

だからこそ、私たちは話すとき、自分がこれまで蓄積してきたさまざまなパーツをより合わせて話すスタイルを作り出します。それが一つの個性として現れるのです。

一方、書き言葉は、「このように書かなければ」という書き方のスタイルに規範性が強く働きます。なぜそれが働くのかを分析しはじめると、それだけで一生かかる研究がスタートしそうなのでここでは割愛しますが、この規範が強く働いているとき、生み出される文章には個性がなくなりますし、また書く行為も固くなりがちです。そこをほぐしていくのが、「書かないで書く」の一つの目標でもあるでしょう。

本当は、「ポッドキャストっていろいろな人の個性が感じられて楽しいですよね」みたいな話を始めるつもりでこれを書き始めたのですが、結局文章を書く話に結実してしまいました。これもまあ、「このように書かなければ」から逸脱していることのメリット(あるいはデメリット)ではあります。

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