第十一回 それは、アンバサダー・マーケティングではありません

「メディア的に生きる」とは媒体的に生きる、ということだ。その一番わかりやすい例として、「自分でメディアを持つ」という方法がある。たとえば、ブログを運営する、というようなことだ。

たとえ個人で運営するブログであっても、Webの中ではれっきとした「いちメディア」である。そのブログがある程度に人間に読まれているならば、企業からのオファーなんかもきっと出てくるだろう。企業はとにもかくにも露出が必要なのである。

さて、ブロガーはそのような企業といかにして付き合えば良いのだろうか。

こんな問いは、20年前の日本なら、そもそも生まれてすらいなかった。でも、現代ではそれほど珍しいシチュエーションではない。なにも企業とコラボするといった大げさな話に限らない。イベントに参加したり、商品をレビューしたりといった「些細」なことがらも、この問いに含まれている。そう考えると、この問いは、現代では(やや)ありふれた存在とも言えるだろう。

さて、まず最初に言えることは、その問いには自分で答えを出さなければならない、ということだ。

なにせ、メディアの主催者は他の誰でもない自分である。その方針を決めるのは、他の誰でもない自分の仕事であろう。企業の社長が、自社の方針を最新のビジネス雑誌を鵜呑みにして決めていたら「ちょっとは仕事しろよ」と感じるに違いない。それと同じように、自分のブログの方針を決めることも、自分の役割の一つなのだ。よって、僕が「こうすればいいですよ」と答えを提示することはしない。そういうのは、控えめに言って余計なお世話である。

ただし、いくつか考えるためのヒントはあるように思う。ここではそれを提示してみたい。

さて、話は変わる。最近の日本では「アンバサダー・マーケティング」なるものが徐々に生まれている。かくいう私もEvernoteアンバサダーである。

アンバサダーは「大使」のことで、これだけをみるとなんのことかよくわからない。簡単に言えば「企業内部の人間ではなくユーザー側の人間にも関わらず、その企業の製品に熱中しており、自発的かつ熱心に周りに普及活動をしてくれている人」ぐらいの意味だろうか。

販促に口コミが大きな力を持つことは、改めて指摘するまでもないが、ようはその力をより増強していく、というのがアンバサダー・マーケティングである。実際、Evernoteは大きく成長してきたが、プロモーションにはあまり投資してこなかったらしい。その代わり、ユーザーの関わり合い・関係性の構築に力を注いできた。結果は、改めて言うまでもないだろう。

そうした「成功例」に倣おうと、似たような制度をスタートさせている企業も多い。ここでいちいち名前を挙げることはしないが、検索すればたっぷり見つかるはずである。

さて、このアンバサダー・マーケティングの要とはなんだろうか。影響力を持つ人(いわゆるインフルエンサー)? 大きなマーケティング費用? 中間となる有能な広告代理店?

どれもこれもNoである。もちろん、こうしたものがあった方が有利かもしれないが、最低限必要なものではない。

では、それは何か。

それは企業側の熱意である。このことがわかっていないアンバサダー・マーケティングはほぼ失敗すると見て間違いない。

企業が熱意を持って製品(あるいはサービス)を作る。それを受け取ったユーザーが、その熱に感化され熱中する。その熱意がネットワーク(口コミ)を伝って、全体へと広がっていく。これが、理想的なアンバサダー・マーケティングの形であり、唯一成功する形でもある。広がっていく速度や規模に違いはあるにせよ、通るルートの形はこうなっているはずだ。

逆に、間違いなく失敗するのは「安い金でブロガーを適当に拾ってきて、商品を紹介させれば売れるだろう」みたいな姿勢である。こんなものはアンバサダー・マーケティングとは呼べない。制度として「アンバサダー」というものを設け、そこに人を集めても、そういう人たちは熱心なユーザーではない。一時的に熱心なユーザーっぽい振る舞いをしてくれるかもしれないが、そんなものは続かない。なぜか? 企業自身がその製品に熱心でないからだ。こんなものが長く続くはずがない。

アンバサダー・マーケティングは、一時的な流行を演出するマーケティングではない。ユーザーとの長期における信頼関係を構築していくマーケティングである。そこで重要となるのは、キャッチボールだ。そして、最初にボールを投げるのは他でもない企業自身なのだ。そのボールの速度で、ほとんど全てが決まってしまう。だいたい企業自身がガチでない製品に、ガチなユーザーが集まるものだろうか。現代のユーザーは賢く、そして敏感だ。そのことがわかっていないと、成果はほとんど生まれてこない。

アンバサダー・マーケティングで行うことは、おそらく二つの要素に集約できる。一つは、「熱心なユーザーを可視化し、集めること」。もう一つは、「そうしたユーザーの発信を助けること」。この二つだ。

そして、それぞれにおいて「ユーザーを信頼すること」「企業は(ある程度)手綱を手放すこと」が重要になってくる。もちろん、そうしたことができるのも、企業がその製品に自信や誇りを持っているから、というのは付け足すまでもない。

話を戻そう。

「メディア的に生きる」とは、何かと何かをつなげるような生き方だ。

「企業的な案件」が目の前に迫ったとき、胸に手を当てるなりして、問うてみるといいだろう。

「自分がつなげたいと思っているものと、この案件は合致しているのだろうか?」と。

もし、あなたがつなげたいものが「自分自身と小銭」であるならば、迷うことはない。やたらめったらレビューして褒めればいい。企業はそういうのは好ましく思うはずである(少なくとも嫌われない)。その後も、小銭をもらえるチャンスは増えていくだろう。

でも、そうではないとしたら、「紹介するのかどうか」あるいは「どのように紹介するのか」といったことはじっくり検討しなければいけない。でないと、手で歩き、足で物を掴むことになりかねない。

適当な企業が適当なマーケティングで転けるのはぜんぜん構わない。でも、一人のメディアの主として、それとどうコミットしていくのかは重々考えた方がいい。長く続けるメディアこそ、そういう判断が積み重なっていくのだから。

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