「すぐれた教師」のスタンス​

※WRM20140421号「アリスの物語」リライティングの現場(3)より一部抜粋

ようやく、改稿の改稿が終わりました。

・元々の原稿→藤井先生の監修→倉下改稿→編集者さんのチェック→倉下改稿→……→出版

この5番目が終わったということですね。原稿は、再び編集者さんの手に渡りましたので、そこでのチェックが終わって、もう一度私の手に原稿が返ってきたら、いよいよ最終チェック、というところでしょう。発売までのリミットを考えれば、それがギリギリぐらいです。

さて、今回は監修を受けて思ったことを書いてみます。

以下の記事では、ドラッカーのコンサルティングについて紹介されています。

「質問によって行われるドラッカーのコンサルティング 究極の問いとは」(ダイヤモンド・オンライン)
http://diamond.jp/articles/-/38858

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 最高の教育者はスペックを持たない。理想像は持っていても、その理想像に生徒を押し込めようとはしない。自らの理想像をも超えて成長してくれることこそ、教師冥利に尽きる。同じことは、コンサルタントについてもいえる。
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Aという状況があったとしましょう。そのままでは力不足なので改善が必要です。あなたはその分野の先輩であり、こうすればよくなる、という形がはっきり見えています。仮にその形をBとしましょう。

「Bにしなさい」と言うのは簡単です。一番楽な方法です。

しかし、それは自分の理想像に生徒を押し込めていることになります。そして、それは想像力の欠如でもあります。つまり、その生徒が自分のイメージよりも良いものを生み出すかもしれないという状況を想像する力が欠落しているのです。

職人気質の人ならば、そんなとき、何も言わない選択をするかもしれません。不親切なようですが、自分の理想像に押し込めてしまうよりはマシでしょう。

すぐれた教師なら、「Bというパターンもあるかもしれませんね」というかもしれません。Aが明らかに力不足であることを示しながらも、(そして改善のためのヒントや方向性を示しながらも)「Bにしなさい」というメッセージは込めません。それは、Aでもなく、Bでもなく、もっと良い(あるいはその生徒らしい)Cという答えが出てくることがあるかもしれない、と考えているからです。あるいは、それを期待しているからです。

はっきりいってこれは簡単ではありません。それに、とても手のかかる方法です。なぜなら、生徒が回り道してしまって、Bの基準にすらたどり着かないこともありうるからです。しかし、教師はそれをゆっくりと待たなければいけません。ニコニコと笑顔を浮かべながら。

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今回、私が受けた監修は、「すぐれた教師」のものでした。

指摘を受けた部分は__明らかな誤字脱字をのぞけば__「~~という表現ではどうですか?」という提案の形であり、もっと良い形があればそちらでという柔らかい表現になっていました。そして、倉下さんならそういうものが生み出せると思います、というメッセージが込められていました。

ごくシンプルに言えば、クリエーターに対する敬意が隅々から感じられる監修でした。その敬意に、たいへん勇気づけらたことは言うまでもありません。また、指摘だけではなく、「この部分はとてもいいですね」という感想も付けられていました。これでモチベーションが上がらない書き手などいないでしょう。

逆に自分が監修者だったら、ここまで配慮が行き届いた監修ができただろうかと考えると、少し頭が重くなってきます。あるいは、あるいはそれをするためにどのぐらいの時間的・心理的コストが必要だったかを考えると、さらに頭(こうべ)がたれます。

今後私が監修者の立場に立つことがあるのかはわかりませんが、もしそんなことがあるのならば、同じような姿勢で取り組みたいと思います。

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