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それ、本当に「やらない」だけ?「やれない」の間違いでしょう? ニーチェ『道徳の系譜学』

弱い人間は、抑圧され虐げられる。
強い人間に復讐することができない。

一方で、人間には自己肯定の本能がある

弱い人間は、自分を慰めるため
自分に嘘をついて
「弱さそのものでしか無い」ものに
満足して生きている

『道徳の系譜学』
第一論文 一三 弱き者の自己欺瞞 
から引用する

「われわれは悪人とは違う者に、
すなわち善人になろう!
善人とは、暴力を加えない者であり、
誰も傷つけない者であり、
他人を攻撃しない者であり、
報復しない者であり、
復讐は神に委ねる者であり、
われわれのように隠れている者であり、
すべての悪を避け、
人生にそれほど多くを求めない者である。
われわれのように辛抱強い者、
謙虚な者、公正な者のことである」。
――しかしこの言葉を先入見なしに
冷静に聞いてみれば、
そもそも次のように言っているにすぎない。

「われわれのように弱い者は、
どうしても弱い
のだ。
われわれは、
それを為すだけの強さをもたないことは
何もしないほうがよい
のだ」。

多くを求めない
辛抱強い
謙虚
公正

なんとなく良い印象のある言葉だと
私は思う。

ただ、ニーチェはこれを否定する

これはただ
弱いから求められないだけだ
というわけだ。

「弱くて、それ以外選べない」ことを
あたかも「自分で選んだ」かのように
嘘をついているだけ
だというわけである。

弱き者たちと抑圧された者たちが、
弱さそのものを〈自由〉として解釈し
あるがままの現実を功績として
解釈する、崇高な自己欺瞞
満足できるようになった

ある種のプラス思考
言えるのかもしれない。

力をもたない人が
自分に満足するためには
優れた方法
なのだと思う。

私も力を持たない人間の一人である。

このニーチェの言葉は突き刺さった

「私は、ただ、できないだけだ」
「理由をつけて、自分を騙してるだけだ」

苦しいなぁ…と、思う。

とても厳しい話だが
これが人間の一歩先の存在『超人』を
目指す第一歩
になる。

「弱い」ことを「良い」と嘘を付くのではなく
「弱い」ことを「弱い」と認める
こと

その上で、本当の「良い」を追い求めること
「神」基準の良い ではない
「自分」基準の良い を追い求めること

弱いなら、強くなろうと意思すること

それが最初の一歩になる。






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