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深夜2時、悪夢で目覚める。深夜の町を徘徊する。

「くらがり」に敢えて身を晒す。

すると、隠れていた自分が見えてきた。

そんな話。

その日、
悪夢にうなされて目が覚めた。

胸の鼓動は早く
息が切れている。

時計を見ると
午前2時前。

目は完全に覚めている。

眠くない。

平日なら
寝直す必要がある。

短い睡眠時間では
仕事を乗り切れないからだ。

でも、その日は違った。
土曜日の朝だった。

私は決めた。

「外に出よう」

「深夜に外に出る」

私にとってのくらがりだった。

やってみたいと思っていたことの
一つだった。

「深夜に帰る」は、今までもあった。

ただ、それは、酒の席の後で
酩酊した身を家に収めて眠る。

それだけの作業的なものだった。


この日は違った。

頭はしっかり冴えていた。

「自分を見る」準備はできていた。

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薄曇り
空には月だけが見える

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明るい時間とは違い
車の影はほとんどみえない

寒くもなく暑くもなく
光も音もしぼられた
「刺激」の小さな
とても心地よい状態だった。

そんな中を歩く

自分の中の
「快」と「不快」のアンテナに
注意を向けながら…

「不快」のアンテナに反応がでた

「人の声」だ

閉店後のゲームセンターの前で
下卑た笑い声を響かせる集団がいた

私は早足に通り過ぎた

自分の心を
よく「見て」みる。


怖がっていた

被害の想像が膨らんでいた

カツアゲされる? 

暴力を振るわれる?

どうやって逃げる?

助けは求められるのか?


実際には何も起こらなかった
当たり前の話だ。

コンビニに寄る。

川辺に腰を下ろして
ジュースを飲みながら
心の「不快」の波が収まるのを待った。

自分の心の動きを考えてみる

明らかに、過剰だ

「怖がり過ぎではないか?」


この時、気づいた

この感覚は
普段から感じていたものだったことに

他の刺激の中に紛れて
よく「見えて」いなかっただけで

「人への恐怖感」は
私の中にずっとあったのだ。

昼間に外を歩いていても
仕事をしていても
家にいても

私は「人が近くに居る」ことに
「不快感」を感じていた。

「不快感」の正体は
「恐怖」だったんだ。

それを前提に考えた時

私の人への接し方
癖でやってしまっている接し方に
理由がついた。

私はいつも「怖がっていた」

「人の恐怖から自分を守る」が
私の行動原理になっていた。

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帰り道

青信号が見える

「怖がらんでもいいんじゃない?」
と、言われた気がした。

ゲームセンターの前を通って帰った。



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