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『個人の名前』も『分類』の一部なんですよ 『野生の思考』第6章より

『野生の思考』第6章 普遍化と特殊化

この章では
前章までで述べられた
『世界の構造』に
疑問が投げかけられる。

どういうことかと言うと

『世界は、対立を何段にも
 重ねてつくられた
 連続体の形で表されている』

という説明に対して

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分類の最下段に位置するもの
=「固有名詞」 の「命名」に
上部構造との関係があるか

という問題である。

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『野生の思考』P106 に
Gardiner氏の言葉が書かれている。

「命名」される唯一の理由は
「意味」され得ないことだ

もし、これが正しいとするなら

つまり、上位の分類と関連なく
「命名」されるのだとするなら

構造主義的には大問題なのだ

構造主義では、二分法で
世界はピラミッド構造で表現できる

と言っていたのに

最下層の『固有名詞』に
意味がない=上位との繋がりがない

となってしまったら

ピラミッドが成り立たない
ことになってしまうからだ。

イメージ図だとこんな感じ。

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こうなってしまうと

あれ…
「体系」で世界が表現できてないぞ?

すなわち

『構造主義』の敗北

を意味する。

当然ながら、
レヴィ・ストロース氏は
敗北を許さない。

徹底抗戦する。

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第6章の残り20ページあまりは
ひたすら実例で埋まっていて

『固有名詞』も『分類体系』のうち

ということを示し続ける。

「もう分かったから!!」

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と読者が思っても、容赦なく続ける。

一例を紹介したい…と思ったが
遠い世界の~族の話をしても
ピンとこないので

「日本」のことを考えてみる。

P217の記載がヒントになる。

固有名詞は両極に二つのタイプがあり
(中略)
名づけられる個人が、
先定されているあるクラスに
帰属することを確認する。

他方では、名前は
名付ける個人の自由な創作で、
名づけられる人間を使って、
命名者自身の主観性の
一時的状態を表現する。

(中略)

もし与える名前が
名づけられる人間の属性に
従ってきめられるのであれば、
それは他人を分類しているのであり、

もし規則に縛られず「自由に」、
すなわち自分の属性によって、
他人に名をつけているつもりなら、
それは自分を分類しているのである。

そして多くの場合は
この両方を同時にやっている。

まとめるとこういうことだ。

命名には2つのタイプがある

1,名づけられる人間(子)の属性に
  従って決める

2,自分(名付け親)の属性に
  従って決める

そして、この2つは
多くの場合同時に行われる



日本人の命名は
「同時に行われる」の典型例である。

「佐藤 蓮くん」を例にして考える。

「名字」がタイプ1にあたる

「名づけられる人間の属性」
すなわち
「佐藤家の一族の者」という属性
則って命名されている。

「名前」がタイプ2にあたる。

ここには「命名者の属性」すなわち
名前をつける「親」の属性が現れる。

該当部分を再度引用する。

名付ける個人の自由な創作で、
名づけられる人間を使って、
命名者自身の主観性の
一時的状態を表現する。

今回の例であげた「蓮くん」の場合は

この「蓮」に
「親の主観性」という属性が現れる。

・「れん」という音の響きを良いものと感じる
とか
・「蓮」が泥の中で育ち、
 きれいな花を咲かせる植物であることから
 泥=苦難に負けない強さを持って欲しい
とか

命名者=親が
これらを考える人間であると、分類される
ということだ。

「親の分類」が「子供の名前」になった
ということになる。


世界は一つの体系として理解できる

それは「特殊化(=具体化)」の
究極である「固有名詞」も例外ではない



これが結論である。

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