本性って意外と抽象的な概念なのかな。「せいかく:うちき」ぐらいの。

つい数日前においしそー!とスクショを撮っていたレシピでおかずを作った。丼一杯となます皿一つ分。つまり大量。今日、Twitterでそのレシピがまた流れてきていて「材料が一つ足りてなかった」「酢」。あんなに大量に作ったのに違う料理だった。おもしろすぎる。酢て。絶対味違うじゃん。これはこれで美味しいから良いんだけども。味に飽きたら上から酢かけようかな。

昨日はラベルに「電子レンジで温める際は別の器に移してください」と書いてあるお惣菜を素直に器に移し替えたら、それがのっていたトレーに「電子レンジOK」と書いてあるのを見つけた。どっちなん。私はスーパーとトレーのどっちを信じれば良かったんだろう。この矛盾をみんなはどう受け止めて生きているんだろう。


ポテチの筒のサイズが短くなったのを「人を騙すメリットよりもパッケージに使う材料コスト削減のメリットのが大きくなったんだろう」と言ってるつぶやきが流れていった。人を騙すメリットが欲しかったんじゃなくて、パッケージ変更にかかるコストがデカかっただけなんじゃないかなあ、と思ったけど自分が特にパッケージに詳しいわけではないのに気付いた。けど言いたいので言った。


人の本性について考えている。「本性を表したな」と言う時、大抵「悪い部分が出たな」と言いたいだけだよな〜と思って。これが性善説に基づくならば、良いことをした際に「本性表したな」と言われるべきだよな。そういう使われ方のこともあるが。というか、「本性」って何なんだ。基本的に自分ってどれも自分だと思ってた。良いところも悪いところも全部自分じゃん。それは「本性」ではないのか。もっと根っこの部分を本性って言うのか。

デジタル大辞林「本来持っている性質、生まれながらの本質」「本心」とある。本性という概念を言葉で表すならこうってことだから、微妙にニュアンスが違うのかもだけど、決して悪い行動や気持ちを指しているわけじゃないことは分かった。「本性」を使いたい人の多くが「悪い部分はその人本来の性質だ」と言いたいだけね。

本性って意外と抽象的なのかな。「せいかく:うちき」ぐらいの。そんくらいふんわりしてないと大半の行動と関連付けが出来なくないか。「本性表したな」って結構具体的な行動に対して使われるけど、そもそもそれが間違いなのでは。

行動って気持ちの現れ方のブレなんじゃないか。人に優しくしたいと思う気持ちがあるとして、具体的にどう優しくするかって人や状況によって違うじゃん。コミュニティの新人に対して、優しく声をかけるのも、雑に声をかけるのも、見守るのも、全部優しさから来る行動としてありうる。ここでの「優しくしたい」はかなり「本性」に近い気がする。

ただ行動しか見えないから、その人がどう思ってるかは行動から判断するしかない。となると、たくさんのサンプルが無いと判断が難しい。しかし人間って割と環境に左右されるからなあ。案外簡単に変わるよね。人は変えられないって言うけど、それは個人で誰かを変える場合の話であって、複数人で囲めば割とすぐに変わると思うんだよなあ。本性ってどれくらい信用出来る概念なんだろうなあ。環境変われば変わるものって本性なのか?

となると、「せいかく:うちき」レベルでふんわりさせた方が納得感はある。環境に染まっても変わらなそう。

めでたし、めでたし。と書いておけば何でもめでたく完結します。