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自己愛についての走り書き

自分のことはわりと好き。いや、謙遜しました。大好き。自己肯定感も、おそらく高いほうだと思う(比べるものではないが)。

でも負の感情に苛まれたり、周囲の負の出来事に振り回されたりすることが多い。怒ったり悲しんだり。
自分のこと大好きだし、自己肯定感高いんだけど、芯がぶれぶれだなぁと思ってた。その矛盾が更に自分を追い詰めた。あれ?これって自己肯定感高くなくないか?と思った。

とある女優が「自分のことが大好きです」と発言したニュースをみた。そのニュースに対して、世間は絶賛だった。「素敵」「憧れる」「今の世の中に必要」という賛辞が並んだ。私もそう思った。彼女はキラキラしていた。パフォーマンスではなくて本当にそう思っているんだと思った。もちろん私が知る由もない、彼女なりの苦労や挫折があった上での現在だろう。でも私の「自分が大好き」と何が違うのか。
彼女からは芯を感じた。

私は「自分が大好き」だが「自分を大切に」はできていない。
ということは、根本的に自分が嫌いなんだろうなと思った。本当に心底自分が大好きなら、自分を大切にすることに必然的に繋がるはずだから。
「自分が大好き」だって思い込んで、臭いものには蓋をしてきたんだろうな。自分の好きな側面だけを「好き」だといい、自分の嫌いなところをみないふりしてる。そんなの大切にしていることにならない。

私にはかわいくて仕方のない甥っ子と姪っ子がいる。彼等のことは確かに大切だ。大好き以上に大切だ。ずっと笑っていてほしい幸せでいてほしい、苦しいものや汚いものに一生触れることなく、ただただ笑っていてほしい。そしてなにかあったら、私が絶対に味方でいる。

ああ、これが大切という気持ちか。

なら私自身にこの気持ちはある?

否。

なかった。

なにかしなきゃ駄目だと思ってた。心や身体の赤信号を無視していた。感情を殺して他人に振り回されることにしていた。
とても可哀想な私。
私が誰よりも私を大切にしていなきゃいけなかったのに。

私が私を大切にしていないと、嫌な出来事があったときだれも私の味方でいてあげられない。残るのは空っぽの身体。器。
「絶対的に私から離れない味方」を外に探していたけど、それは自分であるべきだった。何があっても私から離れない存在。そんなの私一人で充分だったのに。

空っぽの器が残るから、他者依存他責思考になっていた。そんなのうまくいきっこない。他所から与えられたものは、いつか消えてなくなる。
周りのすべてがなくなっても確実に残っているもの。それはどうしても私自身なんだから、私が私の味方でいないとどうなるのよ。という喝。

今までごめんね。
気付くのに何年もかかってしまったけど、これからはずっと一緒にいるからよろしくね。

いい思い出も悪い思い出もこれからのいいも悪いも一緒に味わっていこう。もう蓋はしないよ。

私はまだまだ弱いから、また蓋をしたくなってしまうことがあるかもしれないけど、そんな時は呪文を唱える。

「大丈夫。私はとても素敵だから、私は私を愛しているよ」