モンスター 百田尚樹

数年前に読んで衝撃をうけた小説のひとつを、このタイミングで読み返してみた。私は世間一般でいうところのアラサーである。初めて読んだときと、どう受け取り方が違うのかと気になって再読した。

結果から言うとかなり違った。

初めて読んだのはたしか20代前半だったと思う。お察しのとおり大した努力もせず、それなりの身なりを整えていれば男性(特に年配のおじ様)からちやほやされる年頃だ。(もちろんその年頃でも努力をしている女性はたくさんいる。私が若さにあぐらをかいて努力をしてこなかった"側"であるだけだ)

そのころの感想は「ふーん。ブスって大変なんだなぁ。現実にこんな酷い世界あるんだなぁ」ぐらいだったと思う。整形にたいして憧れがなかったといえば嘘になるが、大金を出して痛い思いをしていまで自分の顔を変えたいというようなほどの熱量もなかった。

ちなみに私の外見は十人並みだ。化粧の腕前が人より上手な自負はあるから、十人並みでもたまには外見を褒められるぐらいにはなる。決して"美人"の部類ではない。そしてこれは卑下でもない。

そして今回アラサーとなって読み返してみる。

この数年で顔にメスこそ入れていないが、間違いなく20代前半の私になかった"老い"というものを感じた。

あの頃は何をしても肌は綺麗だったし、お酒は翌日に響かなかったし、化粧を落とし忘れた日も肌荒れはなかったし、食べ過ぎても翌日断食すれば体重なんてすぐに戻った。

ところがどうだろう。いまやスキンケアは念入りにおこなって、お酒もほどほどに嗜んで、食べるものの質にも量にも気を遣って、はじめてプラスマイナスゼロになるのだ。化粧を落とさないで寝るなんてのはもってのほかである。

今作の醜い主人公が、美容整形を繰り返して絶世の美女へと変貌していく様とはかなり違うが、見た目が変わることによる周囲の反応の変化は私もここ数年でおもしろいほどに感じた。私の場合は年齢というものもあるが、女性の"美"はだいたい外見と年齢をセットにして語られることが多いからここでは一括りにする。

"若さ"は何事にも代えられない武器だった。それこそ馬鹿でも賢くても笑って楽しそうにしていれば許してもらえたし、それなりには男性にも苦労しなかった。それが過ぎれば求められるのは"賢さ""礼儀正しさ"etcだ。だが現実は厳しい。これらだけをもっている女性より、"美しさ"や"艶やかさ"をさらにもっている女性に世の中は優しくできている。残念ながらこれは事実だ。私はその"若さ"と"成熟性"の狭間にいたときの僅かな変化を感じた。(まだ成熟はしきっていないけど昔よりはマシだろう)私にしかわからない周囲の変化。冷たくされたわけでもない。蔑ろに扱われたわけでもない。だけどたしかに、静かに波が引いていくような、足元の砂がさらさらとゆっくりと溶けていくような感覚があったことを覚えている。

小説に描かれていた、主人公が受けてきた扱いは空想のものではなかった。私には測り知れない残酷な世界があるんだと思った。救いであったのが、主人公が綺麗になっていって美しく優しい世界を味わう方向であったことである。

不細工時代の主人公と整形美人時代のエピソードが交互に入ってきて、とても読みやすかった。泥水と清水を交互に飲んでいるような気分だった。

美しくなった主人公の目的は、醜かったころに想いを告げることさえ許されなかった相手に、美しい状態で会うことであった。彼女は何度も問う―「醜かった私でも愛してくれた?」

私たちはなんのために美しさを追求するんだろう。

自分のため?男のため?愛されるため?承認欲求を満たすため?

残酷な世の中が女性を美醜で判断してしまう限り、これは永遠のテーマなのかもしれない。

ちなみに私は今幸せです。