049 | 駒場博物館で音楽指導者フランツ・エッケルトの展示を見た



時系列的にはしつこく前々回048の続き。東大生産技術研究所の展示を見てから、となりの駒場Ⅰキャンパスの駒場博物館で「近代アジアの音楽指導者エッケルトプロイセンの山奥から東京ソウルへ」を見た。東京大学本郷キャンパスには、研究総合博物館というミュージアムがあるけど、駒場にもあったのね博物館。
入口の柱には "自然科学博物館" というレリーフが残るけど、現在は教養学部の所属だ。ファサードからして歴史を感じる石造りだから、そーゆーのは残したままで構わないだろう。





恥ずかしながら知らなかったのだけど、フランツ・エッケルトさんは君が代の編曲をした音楽家であり、近代化を進める日本と韓国で、西洋音楽の指導にあたった先生だ。展示タイトルにあるように、ご出身は(現在はポーランドである)プロイセン王国のニーダーシュレージエン地方、タイトルから想像すると山岳地帯らしい。

そんな山奥から “お雇い外国人” として日韓で音楽指導をした。エッケルトさんの生い立ちや活動に関する丁寧な展示の一画に、ポータブルCDラジカセが置かれてて、ポチっとすると日本国国歌の君が代や、哀の極み(※1) や、大韓帝国愛国歌などが聴けた。





大韓帝国愛国歌も西洋音楽的な体裁だけど、そこはかとなく東アジアの空気が感じられる美しい曲だ。が、現在この曲は韓国ではなかった事になってて、演奏される事はない。それは同曲が作られた後の日清戦争と、以後の日韓情勢に起因する。
君が代は日本国内でさえ誤解が多く、エッケルトが編曲ではなく作曲したと思われている節もあるが、兎も角その同じ人物による作曲の曲など、韓国国歌として掲げておくわけにはいかないらしい。
言われてみれば当然かも知れないけど、国歌として作られ一度は日の目を見た調べが、お蔵入りするというのは悲しい事に思える。君が代が、すったもんだの末現在も存続する国の民である立場上、複雑な想いだ。

だがしかしこのフランツ・エッケルトの展示は、冒頭のパネルで更に釘を刺す。写真撮影不可だし、一度読んだののうろ覚えだけど、東アジアで近代化の早期から西洋音楽が取り入れられ、受け入れられ広まったのは、軍国主義や帝国主義に邁進する上で、軍歌や軍隊行進曲としての需要があったからであると。戦意高揚と合致した事が大きな理由であると。
音楽に関する考察や展示で批判は必要ないと思われがちだが、それは間違いであると、強い口調で訴える。





エッケルトさんの活動に関して残る資料は多くない。それは作曲ではなく音楽の指導そのものを活動の軸にし、"カタチ"に残るものがあまりないのが主な理由だ(と言いつつ展示は見応えあるボリュームだったけど)。しかしながらエッケルトさんは、東アジアに呼ばれた他の音楽教師たちに比べ、早い時期から長期に渡り、多種の機関と音楽ジャンルで幅広い活躍をしたそうだ。没後100年(※2) を記念しての展示だ。

余談だがエッケルトさん、東京在住中は伊香保温泉の保養がお気に入りだったらしい(微笑)。

http://museum.c.u-tokyo.ac.jp/exihibition.html#Eckert


※1、哀の極みは明治30年、英照皇太后の死去に際して政府からの依頼で作られた葬送曲。昭和天皇葬送の際にも陸上自衛隊中央音楽隊などによって演奏された。

※2、1916年韓国で客死、お墓はソウルの楊花津(양화진=ヤンファジン)の外人墓地にある。