”フェミニスト”で”トランス”なわたしと『にくをはぐ』とジェンダー規範にまつわるめんどうくさくてきわめて個人的なはなし

ここ二年ほど、頭のおくのほうのすみっこで、じっと考えつづけていたことだけど、年末からのツイッター上のあちこちでの騒動を見ながら、このへんでそろそろ書き残しておくか、と思いたって、筆を取ることにした(もちろん形而上の筆だ)。

だいぶ長い。本当は2つか3つにわけたほうがよさそうだが、きわめて個人的な、まさにnoteであるのでお許しいただきたい。


私はノンバイナリ/Non-binary gender だ(※ノンバイナリについて、詳しくは英語版ウィキペディアを参照してほしい)。ノンバイナリといって耳馴染みがなければ、Xジェンダーというのが日本では一番よく使われる呼称だろうか。とはいえ、ノンバイナリという既存の女性/男性のアイデンティティを持たない人々を総称して言う言葉と、”Xジェンダー”という言葉の、"X"というジェンダーを持っている、とも読み取れる字面のニュアンスは同じではないから、完全な互換とはいえないかもしれない。

※私は日本のLGBTQギョーカイからは一定の距離を置いており、したがってXジェンダーという言葉のもつ歴史や文脈について語るにはまったく明るくなく、完全に私的なイメージでしかないのを申し添えておく。

ノンバイナリはトランス・アンブレラ(広義のトランスの広がりを表現する傘状の図)に含まれており、ノンバイナリの中にも、バイジェンダー(男女両方の性自認を持つ)、ジェンダーフルイド(性自認が流動的で、一つに固定されない)、アジェンダー(性自認として性別がないと認識している)など、細かくわけるとさまざまなタイプのひとびとがいる。私はジェンダーフルイドだ。いわゆるGIDやトランス女性/トランス男性のようなトランスの中核ではないが、私も一応、広いニュアンスではトランスにはあてはまる、ということになる。


さて、前置きがだいぶ長くなった。(このnote自体がだいぶ長いので、このへんでいいや、と思う方は全然読むのをやめてくれてかまわない…)

トランス排除的な”フェミニスト”たちの言説がTwitterに吹き荒れ、どころかたまに会うレズビアン界隈の友人たちの言葉はしにも忍び寄っているのに暗澹たる気持ちになっていた、2019年末。暮も押し詰まった最後の数日に、私のTwitterアカウントのTLを騒がせたのは、なんといってもNHK紅白歌合戦でのクィアに目配せした演出と、トランス男性を描いたマンガ『にくをはぐ』の話題だ。

この『にくをはぐ』、Twitterのさまざまな界隈で話題になっていたから、すでにお読みの方もけっこういるかと思う。まだ読んでいないなら読んでほしい。短編マンガで、ここで全部読める。

https://shonenjumpplus.com/episode/10834108156731321955

どうしても今すぐ読む時間のないひとのために(あとで読んでほしいが)すごく乱暴にまとめると、狩猟がやりたくてたまらない、でも”女性”だからという理由で父に許されない、そういう状況の(だいぶファザコンっぽい)トランス男性が、父との葛藤でいろいろあった末、性別適合手術SRSを受ける決断をして、”男”として父とともに狩猟を始める話だ。

ある漫画家のツイートが回ってきて初めて読んだときには、トランス男性として典型的ないかにもキャラのハナシだな、若干あざといけどわかりやすくて、ひろい読者に訴求力があってよさそうだな、これがジャンプ関連のサイトに載るなんていい時代だ、と思った。

違和感をおぼえたのは、そのあとのことだ。日ごろからフェミニストや、フェミニズム寄りの視点をもって小説やマンガを読む人たちのアカウントをいろいろとフォローしているアカウントがある。そっちのTLにながれてくる感想に、けっこうつらくなってしまったのだ。

トランス排他的でないはずの(露骨な差別主義者はとっくにブロックしているはずなので)”フェミ”のひとたちの感想であっても、「これはジェンダー規範にしばられた女性の話と読めるのでは」「これでは女であることが苦しいから男になりたいように見えてしまう」というようなものが、すくなくなかった。

※彼ら彼女らの反応についてはトランス当事者のかたが書かれたこのnoteでも語られている。

https://note.com/tomotomo1987/n/n00b68aaef42f

そんなわけないじゃないか。まあもちろん、彼ら彼女らは”フェミニスト”であって、トランスの専門家でもなければ、まあたぶん当事者でもないから、まったく詳しくなくても仕方がないけど、読む人が読めば、露骨なまでにトランス男性のテンプレな手記をなぞってるのがわかるはなしだぞ。

最初はそう思った。

でもこのまえ初詣にいって、石畳を歩いているときに、ふと、違うのだ、と雷にうたれたみたいにひらめいて、びっくりしたのだ。

いわゆるシス女性、女性として女性を生きて、女性として無意識に自認している人たちにはそう読めてしまう、それはある意味、”当然”のことかもしれない。そう思った。

ひとはだれでも、自分の経験にひきよせて考える。あたりまえのことだ。”シス女性”、特にフェミニストとしてジェンダー規範に抵抗する女性であればみずからがジェンダー規範にくるしめられた経験はかならずあるだろう。その体験に、主人公のくるしみを重ねあわせるのはとうぜんのことだ。(というか、このマンガに描かれる強烈なジェンダー規範には、ジェンダー規範にくるしんだことのある人の多くが、自分の体験を思いおこさせるところがあったのではと推察する。だからこそ、幅広い人たちが彼の苦しみに共感でき、こんなにも読まれたという面もあるのではないか)

そのこと自体を「あなたはまちがっている」と断罪することはできない。作品にたいする個人的な読書体験を、他人が否定することはできないからだ。

だが、それでも、この作品は、徹底して、”トランス男性”の話だ。トランスについてひととおり知っている人なら、そうとしか読めないように描いてある。

だから、トランス男性がかたる自分史なんて見たことも聞いたこともなくて、今生きているトランスのことをくわしく知らない読者には、主人公=トランス男性の苦しさが、自分の苦しみとまったく同じもののように錯覚するものであっても、それはちがうよ、と言うことができる。

たしかに似ているし、たぶん共感できるところもいっぱいあるだろうけれども、まったく同じ種類のものではないのだ。


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と、ここまでが『にくをはぐ』についての話だ。

彼女らの、特に「ジェンダー規範のせいで、男にならなければと思い込んでいるのでは」という意見を読みながら思い出したのは、漫画家・中村珍先生のこの一連のツイートのことだ。

※中村珍先生はレズビアンだとカミングアウトしている。

togetterにまとめられたこれは、相当”男性的”とされるような趣味嗜好を持っており、だから「ジェンダー規範のせいで自分を男かも」と思っていた、というまさにそのとおりの話だ。

そういう人は、たしかにいるのだ。

さっきあげたような、トランスに無知だったり排除的だったりする”フェミ”の言葉に対して対抗するトランス側や典型的なトランスのことしか知らない人たちの中に、そういうジェンダー規範に振り回されて性自認がわからなくなる人が実在する(特にゲイやレズビアン界隈には絶対にいるはずだ)のを忘れている、あるいは意図的に無視しているっぽく見えるツイートがちらほらと見て、なんだかなあ、と思った。

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ここで、自分の個人的な自分史を語ることにする。

私は自分のことを、しばらく、男性性に憧れているだけのレズビアン寄りのバイセクシュアルだと考えていた。というか、他人に名乗るときもそう名乗っていた。

ふりかえれば、私はジェンダー規範なんて、すくなくとも小学校に入る前まで感じずにすんでいた。ポケモンにはまっていて、ウルトラマンのおもちゃをねだり、母のメイク道具をかりて遊んでいた。いつも遊ぶ友だちには男子も女子もいて、いつもガキ大将みたいにその子たちを率いて、”発明”したわけのわからない遊びで一緒に遊んでいた。そのグループの子がいじめられようものならすぐにとんでいって、やめろよ!と手が出る喧嘩っぱやいところがあった。男の子にも女の子にも庇護欲と独占欲があったのだ(というとなんかアレだが…)。

この世に存在する男女という性別や、それに付随するジェンダー規範に気づいたのは、小学校に入った頃からだ。男女ではっきりわけられる場面に遭遇したときに、まず自分が”女の子”にあてはまると気づいていなかった私は大混乱を起こした。

自分は本当に女の子だろうか?

だいたい3年ぐらいのあいだ、私はずっと考えていた。男の子だと思ったことはない。でも、なんかよくわからないが大人のからだになるらしい”思春期”とやらには、もしかしたら男の人になれるかもしれない。だいたい子供のころなんてみんなおんなじなんだし、なにがちがうんだ。

そう考えた私は、なにをとちくるったのか、だいぶお恥ずかしくて下品な話なのだが、ズボンの中におもちゃの哺乳瓶を入れて、自分のペニスをにぎったような気持ちになった。それでわけもなく自信がついて、そのあとしばらく、股間の膨らみを再現するようにハンカチを入れていた。飽きてやめるころまでに、まわりの大人や同級生に気づかれたかはわからない。(というかなぜ最初にしたのがそれだったんだろう…自分でもよくわからない…子供の思考回路ってマジで…)

そのうちに初潮がきた。性教育を受け、どうやら自分が女性になることは生まれたときからきまっているらしいと気づいた。変な感じはしたが、まあそういうものかもしれないと、とりあえずそのときは納得することにした。

中学にあがってしばらくして、はじめて性的なドキドキを感じたのは、ある女子生徒の横顔を見たときだった。男子生徒に女子扱いされ、よくもわるくも女子というカテゴリの生き物として遠ざけられたり意識されたりするのが、どうにも不思議な、すわりのわるい感じがした。

本の虫だった私はすでにセクシュアルマイノリティ(当時はゲイ・レズビアン、性同一性障害の名前で個別にかいてある本やホームページのほうが多かった)について調べていた。これかもしれない。し、違うかもしれない…。悩みは大きくなる一方だった。

私は養護教諭とカウンセラーに、それぞれ個別に相談した。

養護教諭の先生は、自分が何者なのか「まだ決めなくていいのよ」と言った。カウンセラーの先生は、「今女の子が好きだから、男っぽい趣味や考え方だからというのは”性同一性障害”ではない」「女子だからという理由で、女らしくすることにしばられなくてもいい」と言った。

まあ、正論といえば正論だ。正論だが、思春期のアイデンティティの迷路で完全に迷子になっていた私は、真に受けすぎてしまった。どちらの答えにも違和感があったのに、それ以上に自分より頭のいい大人の言葉は信頼できると思ってしまったのである。

そうか、女の子が好きだとしても男っぽいと言われても理数系がよくできても、自分は女の子なのか。じゃあ、女子が女子らしくというのは、いったいどういう仕組みでできていて、どうやったらそれに反抗できるのだろう。

そこで私はまた図書館にいった。女性学、これだ。ついこのあいだまで読んでいたセクシュアルマイノリティの本棚のとなり、女性学と名前のついたコーナーの本を読み始めた。これがフェミニズムとの出会いである。

フェミニズムの考え方自体は私を救ってくれた。いろいろと変な子供だった私に、変な人たちは変なまま生きていていいのだと初めて教えてくれたのはフェミニズムだ。性別らしさを強制することにはジェンダー規範という名前がついていることを知ったのはこのころだ。

同時に私はトランスジェンダー向けのサイトやレズビアン、バイセクシュアル向けのサイトを読みつづけた。こっそりコミュニティサイトを覗いたりもした。そして当時のコミュニティの、閉鎖的で抑圧的な空気を吸った。バイセクシュアルは異性に走るからレズビアンより下。女が好きな女は男の出てくるBLなんて読まない(まして男はトランスだってそんなもの読まない)。百合も男性向けのものは読まない。FTMゲイだのMTFレズビアンだのはただの仮面で、ただの勘違い腐女子と変質者男性だから、レイプされても文句はいえないし、警察に通報されてもしょうがない。

二回目になるが、私は本の虫だったから、すでにゲイ文学ともてはやされた時代の翻訳小説も読めば、BLや百合も読んでいた。また、最初に淡く意識をしたのは女子生徒だったが、次に好きになった、というか正直に白状するなら初めて明確な性欲をいだいた相手は、男子生徒だった。

ということは、自分はトランスではなさそうだし、すくなくともレズビアン女性ではないし、バイセクシュアルだとなんだか肩身が狭そうだから、ストレートの女ということにしておこうかな?

ということで、一応女性だということで高校を卒業するまでは自分を納得させていた。

だが、それで違和感がなくなるはずはない。ちりちりと胸を焦がし続けていた違和感は、耐えきれないところまできていた。

高校のころをふりかえってみれば、リプトンのパックの紅茶にストローを直挿しして飲めなかったり(これは近い世代の人にしかわからない感覚かもしれない…)、体毛を剃った瞬間に自分が自分じゃなくなるみたいな気がしたのは、女性ジェンダーを引き受けたくなかったからで通るだろう。スカートのすそをできるだけ長くして袴っぽくみせようと四苦八苦したりしたのもそうかもしれない。だが、男子の歩き方や声の出し方を観察して、意識して真似したりしていたのは、男性ジェンダーを積極的に引き受けようとしていたからだ。

それに、身体的な違和感のことを完全に意識の底に押し込めていた。私はペニスが生えてくる…とまでは思ってなかったものの、どこかにあるかもしれないと思っていた頃があったし、胸や尻が一応とはいえ曲線のかたちをしているのに、いまだに風呂場でびっくりすることがある。

ジェンダー規範や抑圧にガチガチにしばられていたのは、当時のわたしのほうじゃないのか?

そう気づいたあとの話は、かんたんに説明するにとどめておく。自分はシスジェンダーではなさそうだと思い直した私は、とりあえず自分を女性と考えるのをやめた。女性扱いではなくただの人間としてみるタイプのひとびとだけを親しい友人にのこした。そうしたら、逆に男とか女とか考えずに好きな服を着ることができるようになった。逆に”女装”してたいして知らない相手に女性として扱われることもそれほどこわくなくなった。


というわけで、これはジェンダー規範のせいで、自分のことをシスジェンダー女性だと思っていた(広義の)トランスの体験の話だ。ホモフォビアやトランスフォビアの抑圧のもと、男性らしさと女性らしさのはざまで、自分が何者かわからずにずっといた人間の話だ。

上で言及した、「ジェンダー規範が苦しすぎて男になって人間扱いされたいからトランスだと思う女性」の、反対の話だということがおわかりになるかと思う。

ジェンダー規範とトランスの、あるいはジェンダー規範とシスの関係性は、すべての人についてわかりやすい言葉で語れるほど、単純なものではない。”フェミ”の人たちにも、”トランス”やアライの人たちにも、もう一度考えてほしいと思う。


予想どおり、ひどく長くなってしまった。この、長くてまとまってなくて、個人的すぎる話を読んでくれた人にはあらためて感謝したい。


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ジェンダーフルイド(Transmasculine)/グレイロマンティックパンセクシュアル/フェミニスト/lgbt(Q) あらゆるマイノリティの連帯の可能性を信じています。 ※過去記事は残しますが、今後note/cakes運営体制が刷新されない限り更新はしません