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人生は作品だ。

娘からの「ママに似合うから」という不思議なリクエストで、再び油絵を始めることにした。

しばらくやめていた理由は
匂いがきつい、身体に良くない物質、汚れる、場所をとる、といった
子育て中では致し方のないものだ。

特に私が好んで使っていた(しかも指で直書きで)のが
クサカベのカドミウムレッドやカドミウムオレンジ。

有名どころでは、イタイイタイ病の原因となった物質を含んでいる。

が、子育てがいったん落ち着き、作品について大まかな構図のイメージも沸いたところで、
新たな作品を作ることにもわくわくしてきている。


情緒的豊かさを研究する身として
責任を持って!
チャレンジしてゆきたい。


…と、前置きが長くなったところで

表題の「人生は作品だ」について記してみたい。


油絵を描くにも、様々な技法はあるかと思うが

基本的には、絵の具のチューブから出したそのままの色をキャンバスに重ねていくのが良い。とされている。
少なくとも、私はそのように学んだ。

パレット上で混ぜすぎた色を重ねた場合
完成させた作品の彩度が落ちる。
つまり、画がにごる。というのだ。

そして実際、私も何度か画をにごらせた経験がある。

パレット上で混ぜ合わせて作った、いくら気に入った色を重ねても
それらをやり過ぎてしまった場合
完成作品を俯瞰してみたところ、どうしても全体的にくすんだ印象となるのだ。


最近、それを人生に置き換えて考えるようにもなった。

人間の情動、感情、気持ちといった類いを色と見立てた場合
それらを重ねて
キャンバス越しに人生といった作品を形成していく。


ただその過程で、喜怒哀楽。どのような感情も
とりあえず「純」なまま重ねていって
最後に俯瞰してみたときに、鮮やかな作品として存在していたら、素敵なことではないだろうか。

無論、明るい箇所、暗い箇所。
様々なものを包括しているのも作品としての魅力だと感じる。

そして色の配置・バランス等、
やはり各々の個性やセンスは問われる。

が、感情が自分を離れたとき
様々な小手先技でいじくった結果
どんなに経験を重ねたところで

もはやその人の人生(作品)は
彩度を落とす。
にごるのではないか、ということである。

ちなみに。
感情を小手先でいじくる。というのは…

悲しみの感情を無理やりポジティブに変換したり
後悔の感情に強引に意味付けをしたり
感情に名前をつけたりして、固定化すること
また、怒りの感情を押さえすぎること
そういった手法、テクニック、メソッドもその一つだと思っている。

社会に適応するため
セルフコントロールはもちろん必要だろうが

ありのままの感情を上手に重ね
最後に俯瞰してその道のりを眺めること。

そして、その眺める立ち位置とか、タイミングとか。
光の射し具合
影の長さ
風向きや温度や湿度とか。

条件も無制限にある中で
何を選択し、どう感じるか。

情緒的に豊かであろうとすることの
真髄だと思ってみたりする。


まずは、新しい絵の具を揃えたい。