落語家は“視る職業”だ。
「落語家は“話す職業”でしょ?」
そう考える人は多いかもしれない。
もしかしたら、落語家さんのなかにもそう思っている人が大多数を占めるかもしれない。
しかし、わたしからすれば、落語家は“視る職業”にカテゴライズされる。
たとえば、
看護師は“看る職業”
映画評論家は“観る職業”
中小企業診断士は“診る職業”
なんだと思う。
どんな種類の“みる”でも、最終的には“視る仕事”を兼ねるのは間違いない。
そんな中、落語家は“視る職業”の最たるもののひとつだ。
というのも、やはり落語という古典芸能が『能動的参加型芸術』であることに所以するのだと思う。
「“いつも”来てくれてありがとうございます」
と、初めて噺家さんに声をかけていただいたときにはとても驚いた。
・・・“いつも?”
バカ面で、クチ半開きで、ゲラゲラ笑ってる姿を“いつも”見られていたということかっ!?
「前回○○って噺、聴きましたよね。◻◻も聴きましたよね。今回△△って噺を演ろうと思うのですが、もう聴きました?」
・・・って
か、確実にアホな顔を“いつも”見られているっ。
どうしよう。
恥ずかし過ぎる。
ぼけーっと見てる顔を、高座側からしっかり“視られてる”のだっ。
そう、落語は“演劇”でも“映画”でもないのだ。
けして、一方通行に眺めていればいいのではなく、こちらとあちらの同じ温度の熱量が双方向に対峙していなくてはならない。
連雀亭規模の38席程度の箱なら、たとえ満席だったとしても“視ている”噺家は、隅から隅まできちんと客をチェックしている。
そうでないと、“落語が成立しない”から。
バファリンの半分が“やさしさ”でできているのと同じくらい
高座の半分は“客の温度”でできている。
だからこそ、客席の隅々にまで目を光らせて温度をチェックしなくてはいけない。
温度を“視る”ことで、深くまで読まなくちゃいけない。
やはり、客の反応がいいと、高座の噺家がわかりやすくいきいきと輝く。
しかしまた、“客の反応”を良くするか悪くするかは、噺家の腕だったり、噺家本人の魅力次第だったりもするのだけども。
「今日の客、シケてんなぁ」
と思えば、客席の温度を“視て”瞬時に判断をくだし、予定していた滑稽噺ではなく敢えて人情噺を演ってみたりする噺家もいる。
なんなら、まくらどころから、本題に入って噺を演っている最中に180度方向転換させて、全く別の演目に切り替えてくる場合もある。それも客に気付かれないように、しれっとした涼しい顔で何事もなかったかのように。
噺家は前座修業中、師匠についてまわり、その師匠の言うことはどんなに理不尽でも絶対である。
約4年前後の前座期間を“ただ堪え忍ぶ”だけに使った人と“視る能力を養う”ことに使った人とでは、二ツ目に昇進した時のスタートダッシュの掛け方もそれ以降の活躍も大きく違ってくるのだと思う。
人気がある、もしくは人気が出るであろう噺家は、この“視る能力”が非常に高いと見受けられる。
反対に、真打になっても人気の無い噺家さんもいて、彼らは長年のキャリアで鍛えられた芸の腕は悪くは無いのに“視る能力”がとてつもなく足りないが故にお客さんがつかないのだろうなと思う。
まぁ、そもそも“視る能力”が足りない以前に“視ようとしない”人もいるし、“視ることの重要性を解っていない”人もいるのだけれども。
これらのことは落語家に限ったことでなく、全ての仕事をしている人に言えることだ。
少し前なら、“空気を読む力”という言い方のほうがしっくりきたかもしれないが、この“視る力”には、おそらく、空気を読む以上の透視能力が求められるのだと思う。
そして、大げさに言うなれば、この世のすべての人間関係に活きてくるものだと思う。
「そんな他人のご機嫌窺うような人生送りたくないんだけど」
と、思う人がいるならば、むしろ“視る力”を自ら積極的につけにいった方が得策だとオススメしたい。
特に組織や集団などでは、相手を制するならば相手をよく“視て”、相手の懐にするっと入り込んだほうが、逆に相手に抱き込まれたり、迎合したりせずに済むのである。
どんな世界でも、相手が何を求めているのかをいち早く察知できる人はやはり仕事ができると思う。
昨日の、h/tさんが、わたしが観たいと思っていた新作落語の台本を、あり得ない速さで作ってくれたように☆(すごく嬉しかった!!!)
もちろん、察知した後にそれに応えるか、突っぱねるかは自分で判断すれば良いと思う。
ただ、突っぱねるにしても、“視て察知する”ことは必須だと思う。
噺家さんの中には、
リッツ・カールトンかディズニーランドで研修でも受けてましたか?
“クレド”とか大切にしているタイプの人ですか?
と訊きたくなってしまうくらい、“視る能力”に長けたホスピタリティに溢れている人たちもいる。
果たしてそれが正解かわからないけれども、他人に悪い印象は与えにくいだろう。
落語家さんだろうが、社会人だろうが、
「自分の方がアイツより優れているのに、なぜアイツの方が評価が高いんだ!」
と思うことがあったら、もしかするとその一因は“視る力”の有無に寄るのかもしれない。
そう言えば、あまりにも“視るアンテナ”を張り巡らせている印象の噺家さんがいらっしゃったので、訊ねてみたことがある。
「ユーレイ、視えますか?」って。笑
そしたら、真面目な顔で・・・
「実際に見たことはないけども、毎日気配や物音で感じますよ」
って!!!Wow!!!笑
↑ 気に入ってもらえたら、フォローしてくれると嬉しいです。
500円あればワンコイン寄席に行けちゃうんです☆もっと落語や寄席に行って、もっともっと楽しい記事を皆さんにお届けします♪