福祉国家は終わって、今はポストモダンの時代?

はじめに

『現代思想』2021年6月号、「いまなぜポストモダンか」でデビット・ライスさんのブログ(道徳的動物日記)が取り上げられていると訊いて、ちょっと購入してみた。言及箇所は、ユク・ホイという論者の記事への訳者解題。

「ポストモダンに批判的な人たちは、こんなふうにポストモダンを理解してます」という一例に、「道徳的動物日記」が挙がっていただけだった。

こうした理解は今日、ポストモダンに批判的な者たちでさえ、つまりはデヴィッド・ハーヴェイであれ、ジョセフ・ヒースであれ、Quilletteや「道徳的動物日記」を読むものであれ、粗雑な形ではあるがある程度共有されているように思われる。(66頁)

これ自体はどうでもよいのだが、気になったのが、訳者の小泉空さんが、リオタールの見解を追認する形で「福祉国家が終わった」と主張し、その後の議論を展開していたことだ。

『ポストモダンの条件』でリオタールは、ポストモダンをポスト産業、ポスト福祉国家の時代として位置づけている。つまり戦後の金本位制を主軸とした世界経済、それを背景とした先進国の産業資本主義、それに裏打ちされた福祉国家が終わった社会[ラッコ強調]が、ポストモダンだとされているのである。これは次のことを意味する。(1)貨幣が貨幣のみを参照し合う自己準拠的な変動相場制(金というシニフィエの喪失)と金融資本主義の登場(2)工業に代る情報産業の発展(3)社会的費用の個人化。(66頁)

確かに、「サッチャーやレーガンのせいで新自由主義が台頭し、福祉がガンガン削られていった」という物語を我々はよく目[耳]にする。この機会に確認しておきたい。福祉国家は「終わった」のだろうか。

福祉国家は終わったのか?

ところが。ある種の思想系の人たちが敵意を抱きやすい言葉、つまり"定量的"に言えば、「福祉国家は終わった」との主張はかなり疑わしい。次の2つの図は、先進諸国における社会支出(年金や医療費)の対GDP比の推移である。

(図1)(福祉国家再編の政治 - Wikipedia)

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(図2)厚生労働省「社会保障制度等の国際比較について

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ご覧のとおりである。

サッチャーやレーガン政権以降、福祉への支出は長期的に見て、むしろ増加傾向にある。日本では中曽根・小泉元首相らが、「新自由主義」の旗手として挙がることがある。中曽根の任期(1982年 - 1987年)中や小泉の任期(2001年 - 2006年)中に、日本の社会支出は抑制されているようにも見える。仮にそれを認めたとしても、長期的推移は増加傾向にある。つまり彼らは日本の「大きな福祉国家化」に対して、歯止めになっていない。

世論の面でも、新自由主義イデオロギーの洗礼を受けた後も、「世論調査は福祉国家に対する世論の支持は引き続き高いとする結果を示してきた」(URL)。

言いたいことはこうだ。粗雑な認識からは、見当はずれな分析や提案が出てくる。

ジョセフ・ヒースや道徳的動物日記の読者のポストモダン理解は、もしかしたら小泉さんの言うように「粗雑」かもしれない。が、それに劣らず「福祉国家は終わった」という主張も、認識や語り方が粗いものである。リオタールの本は大昔の本なのだから、最近の事実や理論と比較して、妥当性を吟味してアップデートしないといけない。それがされているように見えなかったので、気になった。

福祉国家はどうなった?

福祉国家や大きな政府は終わっていない。少なくとも何も補足せず終わったと言い切るのは雑である。このことは経済学系の新書や、政治経済学の入門書にも記載されている基本的認識だ。

「底辺への競争」論によれば,グローバル化とともに政府支出は減っていくはずである。ところが1990年代以降でも,スウェーデンを除く多くの国で政府支出は微増もしくは横ばいとなっている。同じ傾向は,政府の社会支出についても見出だせる。 なぜグローバル化の進展にもかかわらず,国家が縮小へと向かわないのだろうか。代表的な政治経済学者たちは以下のような理由を挙げている。[…省略…](田中拓道, 近藤正基, 矢内勇生, 上川龍之進『政治経済学』有斐閣 2020年 40頁)

ここで、データに基づいて問いが生まれている事に注目したい。何となくの先入観ではなく定量的に把握する事で、「福祉国家は終わった」では終わらない探究が可能となった。

もちろん日本では医療費の自己負担率は上がり、老齢厚生年金の支給年齢は繰り下げられと、事実として福祉国家は変容している。

また先ほど挙げたような"定量的事実"に基づき、福祉国家の変容について、政治経済学的な様々な具体的議論がされている。例えば、福祉国家は量的には終わっていないにしろ、民営化や産業構造の変化、新しいリスクへの対応などで大きく変容している、と論じられている。各国ごとの歴史的な違いも語られる。

いわゆる"新自由主義"の影響はあるだろう。しかし「グローバル化と新自由主義が吹き荒れて福祉国家は終わって、その後の現代では」といった、ふわっとしたイメージを膨らませてもしょうがないだろう。

「スティーブン・ピンカーは現代の熱力学イデオローグといえるだろう」[*1](『現代思想』6月号 67頁)といった自然科学のユニークな比喩で揶揄したり社会を語る文体は、上記の「イメージ」とともにそうしたおおらかな思考様式を形成している。しかし正直、これでジョセフ・ヒースに対抗できるのだろうか? 誰の文章から何を得られるだろうか。

あくまで私の行動指針に過ぎないが、餅は餅屋のテキストを読んだほうがいいだろうと思った。

[*1][…中略…]"ここから信用スコアの低いものは自助努力が足りないとして(エントロピーに抗っていないとして)、その貧困が自然化される一方で、創造的な(あるいは想像的なといってもいいだろう)イノベーターがネゲントロピーを生み出すものとして賛美される熱力学イデオロギーが帰結する。(スティーブン・ピンカーは現代の熱力学イデオローグといえるだろう)。"(『現代思想』2021年6月号 67頁)

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