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病名に囚われないこと

少し、病名について話したいことがある。

皆さんは病名の意義をどう考えているのか?
病名は患者のためのものだと思うか?

患者に病名が付くことで得られる恩恵は確かにある。
しかし、その代わりに失うものもある。

それは、
人としてではなく、
患者として生きることで、
自分を知る機会を失うことである。

病名の一番の価値は医療システムを守ることである。

医療システムとは、医療予算や薬だけではなく、
医療従事者の体力的・心的負担なども含む。

誤解されないようにもう一度強調するが、
病名は患者にとって価値がないという意味ではなく、
医療システムを守るとして一番価値があるとのこと。

想像してみてください。
病名のある医療と病名のない医療は何が違う?

病名のある医療の場合、
既知の病名を判明・区別・選別する手段(機器、医療従事者による判断)がある。

病名のない医療の場合、
あらゆる機器と各分野の医療従事者による検査と診察が必要となる。
一人の診断のために、現在より何百倍どころの医療資源が発生するはず。

しかし、
前述の通り、病名が付くことで失うものもある。


少し寄り道しよう。

皆さん、人生で一度でも精神鑑定を受けたことがある?
もしくは、知り合いの中で受けたことがある人は?

おそらく、ないと思う。
受けたいとも思わないでしょう。
受ける必要すら感じないでしょう。

犯罪者ではない限り、受けたことはないと思う。
犯罪者の場合だって、受けるというより受けさせられる。

そして、ほとんどの人に
「あなたは自分が精神疾患を持っていると思う?」
「今後自分が精神疾患を持つ可能性はあると思う?」
「どんな精神疾患に罹る可能性があると思う?」
と聞いてみても、人々は
「精神疾患を持っていない」
「持つとは思わない」
「知らない。何かあったら病院行く」
と答える。

これは何を意味しているかと言うと、
例えば、一度も人間ドック(普段の肉体のほう)を受けたことがない人が「自分は健康で今後も健康のままだろう」と言うのと同じことである。

つまり、
人間は生まれてから亡くなるまで、
自分の心の健康を確認したことがないし、
確認する方法も知らないし、
確認する必要があるすら思わない。

本熊は精神鑑定を受けることを勧めているのではなく、
人間のメンタルヘルスがどれぐらい軽視されているかを話している。

そして、
これは病気だけの話ではなく、
人間の在り方の話である。

人間として生まれて自分という人間を知らないまま死ぬということである。

これだけでもかなり残念なことだが、
病名がこの問題をさらに深刻化している。
※病名は巻き込まれるだけで、実は無実だけど。

本来、自分の心を知らない人間は、
まだ自分の心を知るチャンスを持っている。

ただし、
何らかのメンタル不調で病院に行くと、
何らかの病名をもらって帰る。

そして、
残りの人生は「〇〇病としての自分」を見ることになる。

例えば、
〇〇病に関する情報や、
〇〇病を治す方法、
〇〇病として生きていく、
〇〇病が再発しているかどうかなど、
よくある話でしょう。

これは、
〇〇病を研鑽する人生となり、
本来の自分の心を探すチャンスを失ったことを意味する。

どんな病気でも、
その人の一部の特性が特定の条件下で、
現在(≒暫定)の医学からそう見えるだけである。

こんな狭い解釈かつ狭い特性範囲に思考を囚われると、
幸せになることは極めて厳しいと思う。

誤解されないように再度補足するが、
病名が付くことには価値があるが、
自分の心を知らない人間に病名が付くと、
自分の心を知るより病名を知ることに意識が行ってしまう。
もしくはその病気が定義した「正しさ」に従って生きていくことになる。


上記は患者だけではなく、医療従事者にも通用する話。

病名を付けることにこだわり、視野が囚われ、
本質を見抜くことができない医療従事者はたくさん居る。

今後は少しずつ、
本熊が思う自分の心を知る、
ケアする方法をシェアしていく。

今回の記事はここまで。

お気持ちだけで十分です。 お金は自分より立場の弱い人に使ってくださいね🐻