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[映画]惑星ソラリス

 アンドレイ・タルコフスキーの映画が好きだ。

 タルコフスキーの作品は「面白い!」というようなものとは異なる。面白いか面白くないかと聞かれると答えられないような作品ばかりだ。好きかと聞かれたら間違いなく好きだ。ときおり取り出してきて見たくなる。そんな作品が多い。

 今夜は『惑星ソラリス』を見直してみた。

 この作品はものすごく低予算な映画に見える。実際は当時のロシアとしては巨額の予算で作られた作品、らしい。でも今見ると、いや、この当時であったとしても、もっとリッチな映像のSF作品は存在していた。この作品も決して低予算ではなかったのだとすると、この映像は作るべくして作られたものだと言えるのだろう。

 海を持つ惑星ソラリス。その上空に、この星を探索するための宇宙ステーションがあり、そこに人間が滞在している。どういう時代感なのかわからないけれど、現実世界から地続きの世界を想定しているのであれば超未来ということになろう。

 これをものすごく説得力のあるすばらしい特撮で撮影したと想像してみる。『2001年宇宙の旅』のような、見事なSFXで作られていたとしたらどうだろうか、と。

 すると不思議なことに、映像がリッチになればなるほど、映画として軽くなりそうな気がする。不思議だ。この作品はこの映像だから良い。そんな気がする。

 作中、おそらく未来の都市として、入り組んだハイウェイを自動車で走るというシーンが登場する。日本の首都高速だ。この映画は1972年の作品で、登場するのは当時の首都高速。実際に車を走らせて撮影したであろう映像が使われている。一部多重露光のような光学合成で通行する車の数を増やしたような映像が登場するぐらいで、あまり加工することなく、日本語の看板もそのまま登場する。

 内容は極めて観念的だ。人の記憶を探り、記憶の中にあるものを具現化する、という「海」が登場する。その海によってもたらされる体験。その体験によって促される内省。そういうものを描いている。

 一応ストーリー的にはいわゆる「オチ」的結末があるのだが、私は個人的に、この映画で最も気に入らないのがこのラストシーンなのだ。せっかく2時間40分もこの観念的な映像を積み重ねてきたのに、ラストにオチは必要ないのではないか。しかも、「このシーンがオチですよ」と言わんばかりの音。

 音楽も全編印象的に流れるのに、ラストシーンだけ安いホラー映画みたいな音の演出がされている。どうしてしまったのかと思わずにいられない。

 終わりよければすべてよしという言葉があるけれど、逆に言うと終わりがまずいと後味が悪い。この作品ラスト以外はとても好きなのだけれど、終わり方だけ納得がいかない。

 見終えた直後は、毎回そう思う。この映画ラストが良くないな、と。でもこのラストシーンのことは割とすぐに記憶から消え去る。そしてなんとも言えない緩やかな時間を過ごしたことだけが残り、しばらく経つとまた手に取るのだ。

 タルコフスキー作品はどの作品も詩のようだ。伝えたいのは物語ではない。その向こう側にある何かだ。それを伝えるために、レイアウトと時間を巧みに操作する。じっくりと映画の時間に身をゆだねる。一般的な演出であればもっと短くするであろうシーンが冗長に描かれる。もちろんそのすべてに意味がある。

 せわしくストーリーを展開させ「飽きさせない」ことに全力を注ぐ作品が増えている中、そういうものとは無縁のところにいるタルコフスキー作品群は、ときどきじっくり身を任せてみることで初めて感じられる何かをくれる。

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