[映画]メランコリア

 好きな映画監督と言われて挙げる監督が何人かいる。好きな作品ではなく好きな監督というとき、わたしが挙げるのは、そのフィルモグラフィの大部分を見ていて、どれも好きである、といった人だ。だからもちろん、その数は少ない。

 そんな中でも特殊な位置にいるのがデンマークのラース・フォン・トリアーである。ラース・フォン・トリアーの作品は好きなのかと言われればたぶん好きだ。おそらくほとんどの作品を見ているし、ディスクで持っているものもたくさんある。しかし、二度以上見た作品はほとんどない。(おそらく『エレメント・オブ・クライム』を二度見ただけだ)

 不思議なもので、ディスクを買うというのは普通、何度も見たいから買うのではないか。わたしも普通はそうだし、トリアー監督以外の作品は繰り返し見る。もちろん、繰り返し見たいものを買う。ところがトリアー作品だけは違う。見るとこの上ない絶望に飲みこまれ、ひたすら不快な後味を味わう。二度と見たくないのだ。特に『ダンサー・イン・ザ・ダーク』は劇場で見て、二度と見たくないと思いつつディスクを購入し、購入したディスクは一度も再生しないまま書庫に並んでいる。好きかと問われれば迷わず好きだと答える。でももう一度見たいかと聞かれたら見たくない。

 二度と見たくない作品を好きだという感覚。これはとても特殊な気がする。少なくともわたしに関して言えば、トリアー監督の作品以外にそういうものはない。そもそも二度と見たくないと思うような作品にはなかなか出会わないのだ。

 『メランコリア』はトリアー作品の中では数少ない、二度以上見てもよさそうな作品である。

 これは不思議な作品で、トリアー作品には珍しく、SFっぽい要素が軸にある。軸にはあるが描いているのは人間の闇で、その点は他の作品と変わらない。

 トリアー監督の魅力の一つに、美女を生臭く描く、というのがある。『ドッグヴィル』のニコール・キッドマンも見事だったが、この作品のキルスティン・ダンストも素晴らしい。美女というのは美しく見せようとすればいくらでも美しくなり、その分人間味が薄まっていく。しかしここに登場するキルスティン・ダンストは美しいけれど生臭い。生きている感じがする。体重があり、体臭がある。

 この作品は巨大な未知の惑星が地球に衝突する、という天体カタストロフィ映画なのだが、うつ病でおかしくなった主人公の美女が、そのカタストロフをどのように迎えるのか、という視点で描いた風変りな作品なのである。しかも作品の前半はカタストロフとはまったく関係ない、主人公の病みっぷり、闇っぷりを描くのに費やす。描きたいのは終末をむかえる人類とかいう大きなものではなく、この主人公だけなのだ。そういう意味でほかのディザスターパニック映画とは大きく異なると言える。

 希望がないという意味では他の作品に劣らず、この映画にもまったく希望はない。なにしろ地球は滅んでしまうのだ。トリアー作品中でももっとも大きな絶望を描いていると言える。ただ、大きすぎる絶望が見ているわたしから遠く感じられるせいか、この作品はもう一度見ても良いかなと思わせるのである。

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