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"地雷"は「身体に埋め込まれているもの」だと思っている話

比喩表現としての、"地雷"という言葉がある。私はこの比喩表現として使われるときの"地雷"というのは、「身体に埋め込まれているもの」だと考えている。

「私は何故、比喩表現の地雷を身体に埋め込まれているものだと考えているのか」という話を今日はしていきたいと思う。

※説明の過程でめちゃめちゃ脱線して謎な方向へ行きますが、フィーリングで感じてください。(重言)

兵器の地雷と表現の"地雷"の違い

比喩表現として使われている地雷には、元々の意味である「兵器」としての現物が存在している。それはそれは惨たらしい、敵に損害を与えるために作り出された戦争の道具である。

現実の地雷が「損害を与える為の道具」である一方で、比喩表現としての"地雷"は「起爆時点での明確な加害者」というものが存在しない。

現実の地雷は損害を与える為に作られているので、「明確に加害しようと作った人物」が存在している。「実際に起爆してしまった人」が当時のターゲットでなくとも無差別に襲い掛かるという質の悪いものであり、「起爆して爆発を受けてしまった人が圧倒的な被害者」である。

対して比喩の"地雷"は、「地雷のある者」が、「何気なく接触した人やモノ」から「触発されダメージを受けてしまう」という構造なので、なぜその人が地雷を持つに至ったのか、その地雷を作ったのは誰なのか、外部から与えられた地雷であるならその人に意図はあったのか、何もかもが謎であり、ケースバイケースだ。

「起爆させてしまった人と、起爆を受けた人の双方がダメージを受ける」か、「起爆を受けた側だけがダメージを受ける」という形になり、「"地雷"を作り、埋め込んだ加害者」というのが見えない構造になっている。

好き好んで"地雷"を持つ者は居ない

"地雷"とは、「持ち主にとって不愉快・悲観的になるポイント」である。そこに至る経緯がどうであれ、「触れられたら痛い傷跡」の様なもので、「弱点」と言ってもいいシロモノであり、無いに越したことはない。

何でも無いような会話で、楽しくなるはずのコンテンツで、ダメージを受けたいと思う酔狂な人間がこの世に居るだろうか。

よしんば居たとして、それは限りなくレアな人物であって、日々生きていて頻繁に遭遇する様な"地雷"を持った人たちとは別の存在のはずである。

コンプレックスと"地雷"

"地雷"には、"コンプレックス"と重なるケースも存在する。勿論「全てのコンプレックスが"地雷"である訳では無い」し、「"地雷"の全ての原因にコンプレックスが絡んでくる訳でもない」が、"地雷"の事を考える時、コンプレックスの事も共に紐解くのは理解する上で重要ではないかと私は思う。

例えば「自分の身長」にコンプレックスを抱いている時、それが同時に"地雷"になるという人が存在する事は想像に難くない。
「コンプレックスを抱きながらも何でもない様に(時に自虐的に)話す人」も居れば、「"地雷"となり感情が昂ってしまう人」も居るという事だ。

コンプレックス、狭義的な意味であるところの「劣等感」であったり「弱点意識」というものは、「それまでに培ってきた経験や価値観」というものが反映された結果浮き彫りになっている事が大半である。

「身長の高低で値踏み・賛美される風潮があり」(前提)
「それを自身も内面化した時」(パターンA)
「その価値観によって傷つけられた経験を幾度も受けた結果」(パターンB)
「その基準に満ちていない自分の身長を欠点だと思う」(帰結)
というのが、身長コンプレックスと言われるものの中身ではないかと考える。

内面化するパターンAと、経験則による傷が疼くパターンBは、どちらか一方だけである人も多いのでは無いかと思う。Aで内面化している人は傷も負っているはずなのだが、「痛みを感じていない」と条件的に「Bには当てはまらない」のではないか、と考える。

「過去の苦しい体験」という意識があるか無いか、がBに該当するかどうかの違いになると思うのだが、「劣等感(苦手意識)が絡んでいる場合」はこの「Bがあるかどうか」が"地雷になるかどうか"に大きく関わっているのでは無いだろうか。

※今テキトーに思いついただけなので皆さんもテキトーに考えてください。

コンプレックスではない"地雷"

一方で、表層的にコンプレックスとは全く関係の無い"地雷"というのも存在する。

例えば、「ハッピーエンドは"地雷"」という様な、「創作の読み手としての"地雷"持ち」である。

もし、これが単純な(狭義の)コンプレックス由来のものであるとするならば、「私はハッピーな人生を送ってないから"地雷"!」「ハッピーな創作が出来ないから"地雷"!」「過去のハピエンに傷つけられてきたから"地雷"!」という様な形の理由になると思うが、その様な単純な推察は多くは通用せず、様々な、複雑な要因からの変化を遂げた結果では無いかと考える。

単純に「ハッピーエンド」という大枠が"地雷"なのでは無く、「ハッピーエンドの中にある細やかな"何か"」が"地雷"であり、それが明確に分かっていない(或いは、それを言うのが面倒な)ので「ハッピーエンドを"地雷"と"している"」状態では無いかと私は考える。

(勿論、その要素が全てのハッピーエンドに共通するものであるなら、そう表現するのも致し方ないし、周囲から見て"地雷"の判別がつきやすいとも思うが、それは本質ではないだろうと考えている)

上記とはまた異なった「コンプレックスとは全く関係の無い"地雷"」を例に出すと、「B×Aが"地雷"」「ドジな眼鏡っ子が"地雷"」「ツンデレは"地雷"」などがあると思う。

仮に「AはCと絡むのしかあり得ない!!」「コテコテのテンプレで媚びてるのが嫌」「そういう人間が許せない」「過去の忌まわしい人物を思い出す」などのそれぞれの理由があったとしても、これらを表層的な、単純に裏返せる劣等感(狭義のコンプレックス)として考えるのは危険だろう。

"地雷"の理由は「所持者本人」にしか解明できないし、"地雷"の痛みは「所持者本人」にしか分からない

好き好んで持った訳でもない"地雷"は、他人が勝手にジャッジしていいもの(ジャッジできるもの)ではないし、その痛みは本人にしか分からない。

"地雷"を起爆されてしまった本人の痛みを「矮小化」するのも、「理解した気になる」のも、「"地雷"を揶揄したり茶化す」のも、他人が行うべきではない。

いつの間にか持っていて、触発されたら痛くなる、感情が押し寄せる、そんな弱点のようなものを持っている人間に、「なりなくてなっている人間」は居ない。

身体に埋め込まれて勝手に起動する爆弾を、「当人のせいにするのも」「巻き込まれた起爆者のせいにするのも」、「どちらも等しくおかしい」と私は考える。

※起爆した上で「更にアクションを起こした場合」の加害者・被害者はまた別の問題です。(「起爆した」と創作者に凸るとか)

埋め込まれた地雷を「埋め込んだ人」が居るのなら、それは誰なのか。

地雷を取り除く方法があるのなら、それはどういった手順で行うのか。

それを解明するのは「"地雷"を持った本人」にしか出来ないし、その答えがあるのかどうかもまた、探ってみないと分からない。

"痛み"というものの本質と向き合うのは、とても辛い。
けれども向き合わなければ一生無くなる事はなく、ずっと何処かで傷は痛み、時に理不尽に疼く。それは"地雷"でも同じ事では無いか、と思う。

現実の地雷に不発弾があっても、比喩の"地雷"に不発はあり得ない。
起動しなかったのなら、起爆理由の思い違いをしていたり、隠された特殊条件があるはずだ。

或いは、複数だと思っていた"地雷"が、実は繋がった1つの理由から来るものだった、という事もあるかもしれない。

持っている"地雷"がどの様なタイプのものなのかは、本人が考えて発見するもので、他者がジャッジ、まして評価・嘲笑するものではない。

あなたにも私にも"地雷"がある

人生を長く生きて来た人間は、誰しもが"地雷"を抱えて生きている。自覚の有無の違いがあるだけで、「"地雷"なんて無いなあ」と思っている人にも、生きてきた何処かで"地雷"を身体に埋め込まれているのである。

長らく私にも"地雷"は無いと思って来たが、「ひょっとしてこれは"地雷"と言って良いのでは?」と思う様な事が最近挙げられるようになった。

私が"地雷"と認識していなかっただけで、「他人が悪意なく触れられ」かつ「誰しもが感情を揺さぶられる訳では無い」事象というものが、私にもあったのだ。

"地雷"が自覚できるのは、ある意味で幸運な事でもないかと考えている。
無いにこした事は無いが、知らずに振り回されるよりはずっとマシだ。

身体に埋め込まれ、避ける事が出来ない"地雷"に、人生を損なわれる不幸な人が減る為には、どうしたら良いのか。

蔓延する「自己責任論」を根絶していくのが、大事なのでは無いかと考えながら。