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死しても生きるのは己の意思なのか

何も知らずいられたよかったのか。最後の最後に打ち明けたのがいけなかったのか。物事の善悪や〇と✕。自分は中途半端で、灰色でいたい事に気づいた。以前自分は「灰」と名乗っていた頃があり(その垢はもう消えている)、灰色も好きである。昔はもっと派手な色も好きな人間だった。人は生きていく内に価値観、感性が変化する。今はもう廃番になったらしいが、過去存在していたMDプレイヤー(音楽プレイヤー)を、僕は高校時代に兄から借りて家に帰らず、学校をサボり、とあるアパートの屋上で、ずっと音楽を聴いていた。

僕はずっと音楽に救われ続けていた人生だった。いや、縋っていたのかもしれない。娯楽で唯一許されていた物だったし、しかも兄達が聴いていたバンドなどをやはりお古の様に聴いていた。その後自分でも音楽を開拓していった。ずっと、ずっとずっと音楽しかなかった。そのまま一般的なアーティスト、歌い手、踊り手、今じゃ当たり前にニコニコ動画やYouTubeで投稿している様々な表現者に、僕はいつも救われている。なにより身近に感じる事、その人の表現力、音楽を作る人、ボカロPの最新曲。それに出逢う中で何度か本気で泣いたことがあった。心奮える時があった。それに確かに生かされた。

……なんというか、自分の傷みや病を言葉に出来た時は「自分で分かってるから大丈夫ですよ」と言われるのが常だった。しかし一体それは何の根拠があるのだろう。言わなきゃ分からないっていうから自分なりに分析して調べて向き合って自分の言葉で困っている事や傷の痛みを訴えたことがどうして「大丈夫」って言うんだろう。
大丈夫なら、この状況をどう打破しろというのだろう。不良にもいい子にもなりきれない僕には、既に何に対しても期待なんてなかった。
そういう時にも、僕は音楽を聴いた。只それしか出来なかったのかもしれない。

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ネームが進まない。手が止まって、嫌ではないけど自分が情けなくなった。しかしそれを悔いている暇があるなら描け、という言葉の数々が頭から降ってくる。
答えをずっと探している。ずっとずっと探している。生きる事を選ぶ僕に✕をつけて正しさってヤツでぶっ刺されたかった。散々否定されてきたんだ。もう終わりにしていいだろう。頼むよ。最後にその正しさで息の根を止めてくれ。そればかりに囚われていた。思考しても何をしてもずっと死と殺人について考えていた。
幻覚と幻聴が酷くなって、実際の視界がよく見えていない。どこもかしこもすすけて見えるのだ。墨のような染みがあちらこちらにある。キレイにしたい、汚いと、悲しく思いながらも自分はベッドから動けずそれを見る事しかできない。この気持ちを何かに表せられるなら誰か教えて欲しい。

救いとは何だ

描いた先に見えるのだろうか  それとももう手遅れなのか
また、前へ進む友人や知人たちを見ていることしか出来ないのか

薬に頼っても限界がある。自力で立って歩くしかない。

この身は誰のものでもない。
痛みは痛み。傷は傷。それの癒し方が分からない。

ずっと

ずっと

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