文をつくる日々

今日は音ネタではなく。

菅家しのぶさんが何者かさっきまで全く知らず、以前より何度か密かに“東京03 公演名 感想” のワードでググって検索にあがるエントリーだけを読んでいた。彼らのコントに対する感想が割と私の抱いたものに近いので、一番好きなレビュアーさんだった。知らず、が失礼であった。あららコンテンツリーグへの掲載の実績を持ち、そしてきちんとした筆力のおありな文章書きさんだった。ごめんなさい。

私の母はニッチな界隈で読まれていた小説家で、青春時代に文学に目覚め、でも色々日常に追われて本格的な活動ができず、やがて家庭を持ち子育てが終わるまでほぼ何も書かずに来て、50半ばの晩年になってから精力的に人に読んでもらう文を所謂文学同人に投稿するようになった。

やがて作家指名制大手文学同人誌の紙面にほぼレギュラー掲載されるようになり、2冊の書籍化を果たした。昨年85になった母が肺炎による入院がきっかけで認知症の発症・一気に進行しだす文字通り直前迄、取材と長編小説の執筆と依頼された紙面へのコラムやエッセイ等短編ものを書き続けていた。

我々一家は少し複雑で説明の難しい多少変わった人生を送ってきたので、母と私は親子としての仲がとても良かったが、小説家と校了直前の編集見習いのような関係性もあり、再婚先の母の家に月一回訪問しては母の書いたものを読み、取材中の素材の話を聞き、印刷されたコラムの感想を言い、次回の構想を聞くという奇妙な絆も持っていた。最も私の心境としては、私は編集として忌憚なく批評するというよりもモチベーション上げ係だったけど。

その母が以前よく言っていたのは、私は死ぬまで文章を書くつもりであるという事。

私も身体支障や余程のことでも無い限り母は書き続けるだろうと思っていた。例え今までのように思い通りに書けなくなっても書くだろう。

詳細は省くが、昨年認知症がはじまって直ぐに、母は自分の変化への対応に精一杯で原稿用紙もパソコンも一切興味を示さなくなった。あれだけ読んでいた読書も全くしなくなった。突然の変化だった。

そういう状態から半年経った、肺炎の症状もその他諸々も落ち着き入所先での生活に慣れた頃に、文化的な事を何もしていないと気付いた母は私にペンと辞書と原稿用紙が欲しいと言った。入所先の人間模様が面白いのでコラムでも書こうかと言う。母が自分から何かをしたいと言ったのは、文章書きであれ折り紙であれお絵描きであれ何であれ、はじめての事だった。

私は急いで原稿用紙ほか一式を取りに行って母に渡した。声をあげて泣き出したいくらい嬉しかった。認知症がはじまってからの母の、食事とトイレと我々親子と家周りの事以外完全に無関心な状態は、これで少し変わるかもしれない。

ただ、記憶が維持できず、道理がわからず分別がつきにくい今、文章を組み立てる作業などできなかろう。本人の意欲とは裏腹に原稿用紙の前で最初に浮かんだことをポンと書き出す事すらできない自分に衝撃を受けるのではないか。今私がしているように、推敲も無く思った事を技能や熟考無視でだらだら書き連ねるのさえできないのではないか。それを自覚したら母はどうなってしまうのだろう?人々の営みを書くことで生き辛い思いをしている誰かの一筋の光となるような人物であろうとしていた者が、自己の日常性すら見えない事を感じてしまったら---心配しつつ、数日様子を見ることにした。原稿用紙を渡してから半年が経ったが、結局母は用紙に一度も手をつけなかった。

…とりとめもない事を書いてきたけども。菅家さんのエントリーを読んで、母の事を思い出した。

書き手さんは切羽詰まったりどん詰まったり乗りに乗ったり嫌気がさしたり調子イイぜだったりをnoteや他でつぶやいている。つくり手みんなは才能の有無を嘆いたり苦しんだり戸惑ったりする。私もそうだ。

でも、人間はアクシデントや収入などの生活基盤や環境とは別に、老いによって自分の意思とは無関係に、全く突然できなくなる。その時に、嘆き悲しんでもどうしようもなく、嘆き悲しむ事も無く自分が何かをつくって書いて足掻いて楽しく自己表現していた事すら忘れてしまう事もある。

だからその時まで、日常を紡ぎましょう。誰かにそれを見て貰いましょう。相手がひとりでも、作品が拙くても、なんて事を自分自身に向けてポソッと呟いたので、書き残しておく。

推敲無し読み返し無し誤字脱字チェック無しの尻切れトンボの音しばりルール破りご了承ください。




大昔打ち込みをやっていたがご無沙汰で試行錯誤なDTMerです。先ずはやってみますな段階。当面は入力にkorg-gadgetオンリーの制限をつけています。