創造主の見る夢 スラム街にて

守るのだ、この世界を!

 共和国の首都ドグマは、一言で表現すればバームクーヘンのような構造をしている。

 まず、中心にあるのが首相官邸を含んだ官庁街だ。共和国の最終的な意志決定は、この場所で行われており、一般人には近づきがたい物々しい雰囲気を持っている。

 その官庁街を包み込むようにして存在しているのが、金融街だ。共和国の国家予算を遙かに上回るマネーが一日で動く、恐るべきところだ。道行く人は、皆自分の頭脳と運で勝ち上がったエリート達だ。

 この二つのエリアの人口密度は、当然のことながら共和国一高い。ところが、夜になるとほとんど真空地帯のように誰もいなくなる。人が寝泊まりするための建造物はほとんど立っていないのだ。

 そのエリート達のベットタウンとなっているのが、二つのエリアのさらに外側を包んでいる、市街地だ。

 土地の値段はべらぼうに高いというのに、エリート達は皆広大な敷地を持つ屋敷を構えている。みな、高い塀で囲まれて一見要塞のような様相を呈している。要塞という表現はあながち誇張ではなく、何人もの警備員が昼夜を問わず配置されているのが常で、中には核シェルター並みの機能を持った地下施設を備えている住宅もある。

 だが、庶民は彼らエリート達に対して嫉妬の念を口にすることはない。彼らは共和国のために命がけで働いているし、だから共和国は世界の一等国でいられるのだと思っているからだ。

 さて、その中核地帯三層の周りには、中産階級の市街地が広がっている。ここの風景は、のどかなものだ。鉄道の駅があり、駅の周辺には庶民的なショッピングモールがあり、町工場などの中小企業が存在している。人々は生活をエンジョイし、ささやかな夢を持って生きている。隙あらば、首都の中心へ食い込もうとしている野心家も多いし、実際このエリアから高級官僚に上り詰めた人も多くいる。もっともそうした人間は、中核地帯へとその居所を移してしまうのだが。

 だが、首都の範囲はそれで終わりではない。

 中産階級エリアからさらに外へ向けて歩いて行くと、次第に様子がおかしくなる。家々はバラック立てのものになり、下水の臭いが溢れ、道路の舗装は剥がれ落ちてしまっている。

 いわゆるスラム街だ。首都ドグマで発生する犯罪のうち50パーセントが、ここスラム街でのことだ。

 人々の目つきは悪い。いつもどこかで、言い争う声が聞こえてくる。薬物中毒者や、わけの分からない疫病に脳を侵されたホームレスが、何事かを呟きながら歩いている。

 政府は、もちろんスラムを根絶したい。だが、スラムを支配する暴力団が、政府中枢の人間と繋がっているのだからなかなか手出しできないのだ。

 クロウ・フクヤマはいま、眉をしかめながらそんなスラム街を歩いていた。彼は、ドグマの中産階級の出身である。だが、鳶が鷹の子を産んだがごとく、非常な秀才だった彼は、中学・高校と主席で卒業し、国立ドグマ大学へと進学した。共和国で最難関の大学である。そして今、大学院生としてバイオテクノロジーの研究をしていた。

 その彼が、蒸し暑い夏の昼間、スラム街を歩いているのには訳があった。

 首都ドグマで、ある種の感染症が広まる気配があるのだ。

 まだ、ほとんどの人は気がついていないが……。

 彼は実際に、その病気に感染した人を、大学生の中で見かけたことがある。

 国立ドグマ大学は、首都の中枢部に建っているから、そんなところにまで感染が広まっているのだ。まだ、少数ではあるが。

 まずい、と思った。周りの人間は皆、そうした感染症があることにも気がついていなかったし、気がついていたとしても、危険性にまでは考えが及んでいない。ただの流行性感冒的なものだと思っている。

 クロウ自身、あるところから示唆を受けるまで、この感染症の危険性に認識が及ばなかった。

 そこで、クロウは統計をとり、また研究の合間を縫って聞き込みを進めるなどして、感染症の元凶を突き止めようとした。

 その結果、感染症の始まりは、スラム街にあることが分かったのだ。元凶はスラム街にある、彼は確信した。

 太陽は、ちょうど南中に到達しようとしていた。

 暑い。だが元々クロウは暑さに強いのか、あまり汗をかいていないようだ。

 スラムの人間に舐められないために、真っ黒いスーツを着込んで、ネクタイまで締めているというのに。サングラスをかけているため、彼が何を見ているのかはっきりしなかった。

 ドグマの中心地から放射状に延びる道路を彼は歩いている。バラック立ての建物が建ち並び、その周囲では不潔な子供達が、サッカーボールを蹴飛ばしたり、地面に落書きして遊んでいる。

 彼は激しい嫌悪感をもよおした。その嫌悪感が、小さい頃から勉強ばかりで遊んだことのない彼のコンプレックスから来るものであることに、彼自身気がついていたから、子供達の前を足早に通り過ぎた。

 やがて、彼の歩いていた細い道路は、大通りへとぶつかる。セイレン通り、と書かれた標識が、ポール真ん中のところで折れ曲がって立っていた。

 セイレン通りの左右には、腐りかけの果物やジャンクフードを売る店が建ち並んでいる。

 セイレン通りへとぶつかる、50メートル程手前で、彼は一度立ち止まった。十字路に十五・六人ぐらいの人だかりができていたのだ。ほとんどの人間が、地べたに座り込んでいる。

 その人だかりの中心で、女が一人立ち、喋っていた。

「*反逆者*はわたしに言われた。貧しきものにこそ、救われる可能性があると!」

 どこかで聞いた声だと思った。

「富は、確かに現世を幸福にしてくれる。しかし、富はしょせん単なる装飾に過ぎない。しかも、心を穢らわしいものにする。富無きものの、心は美しい。心を汚す、華美な装飾を持たないからだ。心を汚す、欲望を持っていないからだ!」

 女は、どうやら宗教者のようだった。

「そして、無知なるもの、彼らこそ支配者の桎梏から逃れうる」

 クロウは再び歩き出した。女との距離が縮まる。

「知識を持つ者は、確かに人々の尊敬を集める。しかし、考えてみよ。知識こそが、より多くの悪徳に人々を導く。人を陥れること、私腹を肥やすこと、人を殺す武器を作ること、その他諸々の悪。これらの原因は知識だ!」

 クロウは人々の輪の一番端に立って、サングラスを外した。説法をたれている女と目が合う。女は目を丸くした。

「やあ、俺も聞かせてもらっていいかい」

 女は、少しだけ笑顔になって頷くと、また口を開いた。

「わたしには、天空からわたし達を見下ろす*瞳*が見える! いつも見えている、今もだ」

 彼女は右手の人差し指を立てると、高く掲げた。みな、それにつられて上を見上げる。

 もちろん、皆に見えるのは、青い空、さんさんと輝く太陽、灰色のちぎれ雲、だけだろう。

「その*瞳*こそが、我らの支配者。*反逆者*が闘いを挑もうとしているものだ。*瞳*は、人間の世界を創った。いわば創造主だ。だが、*瞳*は、世界を創った後も、世界への介入を止めなかった。あいつは……」

 女は大空のある一点を、キッと睨みつけた。

「あいつは、まるで生物学者がシャーレの中の微生物を観察するかのように、わたし達を見つめている。そして、世界が自分の理想とする方向へ流れるように、操作している。あたかも証券の価値を操作しようとする金融商品取引業者達のように!」

 成る程、世界の動きに介入しようとする創造主と、市場経済を支配しようとする人間を同一視するなどとは、面白い発想だと、クロウは思った。彼女は決して無知ではあるまい。

「多分、この世界に生まれて以来、人類はおおむね*瞳*の思惑通りに振る舞ってきた。あいつの付けた道しるべどおりにアフリカで誕生し、世界中に広まった。ピラミッドを造り、戦争をし、宗教を作り、やがて現在に至るまで!」

 人々は、熱心に彼女の話に耳を傾け、一言も話そうとしない。

「あいつは、だから、歴史をあいつの予定とは別の方向へ進める可能性のある因子をことごとく排除してきた!」

 彼女は、また大空を指さした。

「わたしもいずれ排除されるかも知れない。だが、それは今ではない! *反逆者*はわたしに言われた。あいつの支配から逃れなければならないと。そうしなければ、わたし達に救いはない! 自由はない!」

「どうすれば、*瞳*の支配から逃げることができるのですか?」

 まだ十代前半だろう、大人しそうな少年が、よく通る声で彼女に聞いた。

「わたしが先ほど言ったことを実行すればよい。限りなく欲望を捨てなさい。美食欲、金銭欲、不必要な性欲、権力欲! 食べ物も、なるべく肉類は避けた方がいい。ダイコンや瓜などの、なるべく透き通った食べ物がいい。透き通った食べ物には、心を純粋に保つ効果ががある。そして、欲望を捨てることによって、わたし達の姿は、あいつから見えなくなる。いわば、透明人間ね。そうした人々が増えれば、あいつはもう、地上を操ることができなくなる!」

「で、でも。あらゆる欲望を捨てるとしたら、それは自殺と同じなのではないかね?」

 今度は、小綺麗な服装はしているが、髪の毛はぼさぼさで全く手入れされていない、老婆が言った。

「違う。自殺は、あいつの思うつぼ。*瞳*に逆らおうとする因子が、勝手にこの世から消えてくれるのだから。だから、ただ清貧に生きること。繰り返すが、不必要な欲望を捨てることによって、あいつの視野から姿を消すことができる。そして」

 彼女は、両腕を大きく広げた。多分彼女の脳内では、エンドルフィンとドーパミンが大量に分泌されているのだろう。いわば、陶酔状態にあるのだ。

「自分の欲望を捨てて、他者に奉仕しなさい。他者に恵みを与えることによって、自分がより貧しくなるとしても! 何故なら、創造主は、*瞳*は、わたし達を利己的な生物としてプログラムした! 自分と自分の子孫が生き残るためなら、どんな自己中心的な振る舞いでもできるように! 利他的な行為は、だからあいつの予想を超える振る舞い! 上着を欲する者には、下着も拒むな! 右頬を殴る者には、左頬を差し出せ! そうした人々が増えることによって、次第に世界は*瞳*の意図した者とは別方向に歩み始める!」

「だけれど、*瞳*の支配を逸脱したからといってわたし達に何の利益があると言うんだい? 生活には困らなくなるのかい? 息子はわたしを殴って金をせびらなくなるのかい?」

 先ほどの老婆はしわがれた、悲痛な声で言った。そうだ、結局人々が望むのは、何かの支配を逃れることではない。支配されていても、満足に生きることなのだ。

「……人々が完全に*瞳*のくびきから逃れたとき、ユートピアが到来する。そこには、産まれる苦しみもない。老いる苦しみもない。病気もない。死もない。もちろん、すぐにユートピアがやってくるわけではない。でも、わたしの教えを信じていれば、必ず子孫の時代に、ユートピアは到来する!」

「そうかい……。子や孫のためなら、儂も頑張ることができそうだ」

 老婆はそう言うと、しくしくと泣き始めた。皆一斉に、女に向かって拍手をし始めた。

 クロウはようやく口を開いた。

「サヤカ・ガーディナー。君だね。俺が分かるか? クロウ・フクヤマだ」

 クロウが喋ると、拍手が止んで、皆の視線が彼に集中した。

「クロウ……。久しぶり!」

 女宗教家、サヤカはひまわりの花のような笑顔を浮かべた。

「エリートのあなたが、どうしてこんなスラムなんかに?」

「俺は別にエリートなんかじゃないさ。只の人間だよ。君と同じ。……この場所に来たのは、首都ドグマで広まりつつある、ある種の感染症の原因が、このスラムにあるのではないかと予想したからだ。……病気の原因となりそうなところは、至る所にあるがね。ただ、原因についてはもう分かったから、後はそれを排除するだけだよ。それよりも、サヤカ、君のお父さんが心配していたぞ。こんなところで何をやっているんだ? 君は本来……」

「その話しは今ここでしないで。あと十分ほどで、説法が終わるから、そうしたらわたしの住まいに一緒に来て。そこで話しをしましょう」

 それからサヤカは確かに十分間感動的な説法をした後で、クロウのもとへ歩み寄った。

「一年ぶりね、クロウ」

「ああ」

 彼女は、炎天下の中あれだけ説法したのに、ほとんど汗をかいていなかった。自分と似た体質なのだな、とクロウは思った。

「じゃあ、わたしについてきて。家まで案内するわ」

 サヤカとクロウ、そしてサヤカの熱心な信者らしい男女二人は、連れだって歩き出した。信者の男女二人は、サヤカの護衛のつもりなのかも知れない。

 大きな坂道を下り、その途中で左の脇道を曲がると、バラック立ての建物が四軒ほどあった。その中の、一番左端の建物が、サヤカの居住地だった。

 家は、ちょっと大きな嵐が来れば吹き飛んでしまうのではないかと思えるほどみすぼらしいものだった。

 クロウは家の前で立ち止まった。

「サヤカ、お前仕事はしているのか?」

「いいえ」

「どうやって生活しているんだ。ここの家賃は?」

「家賃は安い。学生時代に蓄えていた残りで払っている。大家さんが、わたしの活動を応援してくれていて、特別に安くしてもらっている」

「食事は」

「庭で野菜を育てている……。あとは、信者の人が食べさせてくれる」

 成る程、彼女は自分の言う清貧な、欲望を持たない生活を、自ら実践しているのだ。どうやら、金儲けが目的の似非宗教家とは違うようだ。

「だが、いつまでもそんな生活はできまい。宗教教団としてやっていくなら……」

「そう言う話しは中でしましょう。あなた達、もう、帰っていいわよ」

 彼女は、ついてきた男女二人に向かっていった。

「ですが……」

 どうやら彼らは、サヤカの護衛のつもりらしい。二人とも屈強で、クロウなど簡単に投げ飛ばされてしまいそうだ。

「クロウは、わたしが昔から知っている人。だから、大丈夫」

「そうですか……」

「さあ、早く、自分の戻るべき場所に戻って!」

 二人組は、サヤカに言われるがままに、その場を立ち去った。

 これは好都合だ、とクロウは思った。

 サヤカの家は、ダイニングキッチンがある他は、六畳ほどの部屋が一つあるだけだった。

 トイレはあるようだったが、おそらく風呂はないだろう。だが、彼女は清潔だった。毎日公衆浴場で身体を洗っているのかも知れなかった。何しろ、スラムには公衆浴場が多いらしいから……。

「こんな生活、いつまで続けるつもりなんだ?」

 部屋の真ん中には、小さなテーブルと、そのテーブルを挟んで二脚の椅子が置かれていた。クロウは、その椅子に座りながら言った。サヤカも腰掛ける。

「わたしが、わたしの目的を達成するまでは」

「目的? 悪いが、一生かかっても君の『教え』が人々に広まるとは考えづらいぞ」

「……」

「家に戻れ。今ならまだ間に合う。お父さん、君のことを心配していたぞ」

「……、あの酔いどれ親父でも、娘のことを心配するのかしら?」

「君は宗教家だというのに、そんなことも分からないのか? 子が突然家を出て、嘆かない親など、滅多にいないよ」

「わたしのこと、さんざん殴ったくせに」

 サヤカの父は、まじめなサラリーマンだったが、酒癖が悪かった。特に妻が死んでからは酷く、サヤカもしばしば暴行を受けたという。おそらく、普段の日常生活で自分の衝動を押し殺し過ぎているから(酒が入らないときの彼は、結構な人格者なのである)、そのたがが外れたときの暴走が凄まじいのだろう。

「俺にも、サヤカを探してくれって言ってきた。このままではあの人の生活に支障をきたす。戻ってやれ」

「……」

「もちろん、今日このスラムに来たのは、君を捜すためじゃない。感染症の原因を探すためだったんだが」

「それは、さっきも聞いた。あなたが言う感染症というのは、病原菌が原因の感染症ではないようね?」

「分かるか?」

「だって、このスラム街で、新手の病気がはやっているなんて話しは聞いたことがないもの」

「……そうだな。だが、それが恐るべき感染症であることには違いない」

「あなたの言う感染症って何のことを指しているの?」

「それは、今は言えないな。しかし、偶然とはいえ君に会えて良かった。俺は、君がこんな所で、宗教者をやっているとは思わなかった。なぜ、こんなことをしているんだ。確かに、幼い頃から君には変わったところがあったが」

 サヤカとクロウは、三歳年の離れたいとこである。サヤカが私立大学に入学したとき、クロウは大学院に進学した。

 クロウはよく、サヤカの勉強の面倒をみた。サヤカは、抜群に頭のいい子ではなかったが、観念的な思考ではクロウを良くハッとさせることがあった。全能の神が存在するとして、彼は失敗することができるのか、という議論をしたことが、ありありと思い出せる。 全能の神であるなら、全てのことに成功してしまうから、失敗することはあり得ない。だが、失敗することができないのなら、彼は全能ではなくなってしまう。もちろん、意図的に失敗することはできる。しかし、それは真の意味での失敗ではない。そういう議論だ。

 彼女はその時、まだ高校一年生だった。

「わたしは、多分、産まれたときから、大空に君臨する、あれが見えていた」

「あれとは? 君の言う*瞳*のことだね」

「そう。だから、言葉が喋れるようになってから、多分何度も何度も親に、『あの目はなあに』と聞いてきた。ところが、彼らは何のことだか分からないようだった。幼稚園でできた友達にも、何度も何度も聞いた。でも、皆そんなものは見えないって言った。クロウ、あなたにも聞いたことがあったわよね」

「そうだったかな? 俺は憶えていないが」

「聞いたのよ。そうしたら、あなたも、不思議そうにわたしと空を交互に見つめるだけだった。そんな経験が何度も続いて、やっと分かった。あれはわたしにしか見えないんだなって」

「……」

「だから、小学校に入学して以来、ずっとそのことは誰にも話してこなかった。頭のおかしい子供だって思われるだけだしね」

「ふむ、だろうな」

「ところが、大学二年生になったとき、日付もはっきり憶えてる。六月十五日。梅雨のじとじととした雨が降る夜。わたしは自分の部屋で音楽を聴いていたわ」

「……」

「その時、部屋の、天井に近いところの空間が光ったの」

「……」

「光は、だんだん広がっていき、やがてその中心に、人の形が現れた」

「人?」

「それは、羽の生えた美しい人だった」

「天使のような?」

「そう、まさに天使。その天使は言った。『わたしは反逆者である』と。

『わたしは*反逆者*である。この世界の創造主に逆らい、人類を彼のもとから解放するのがわたしの使命である。あなたには、創造主が見えるはずだ』

 天使はそう言った。わたしは、天使のあまりの美しさに呆然としていたが、でも恐ろしくはなかった。

『創造主って、もしかして、大空からわたし達を見下ろしているあの目のこと?』

 わたしは天使に尋ねた。

『そうだ。あの*瞳*だ』

『やっぱり、あの目は確かに存在しているのね! わたしの幻覚じゃなかったのね!』

『そう。あなたは心が美しい。それで、あの*瞳*が見えるのだ。そして、*瞳*の側は、あなたをはっきりとみることができない。*瞳*にとってあなたは不確定要素だ』

 天使とわたしは、そんな会話をしたわ」

「ふむ、それで天使は君に何を命令したんだ?」

「天使……*反逆者*は、人々を創造主の手から解放するように言ったわ」

「君の宗教の教義も、その天使から聞いたのか?」

「*反逆者*は、どうすれば*瞳*の視野から逃れることが出来るのか、わたしに伝えた。わたしはその方法を、ただ人々に伝えているだけ」

「成る程な。瞳から完全に解放されたとき、ユートピアが現れる、というのも*反逆者*が語ったことなのかい?」

「真の世界が、わたし達の周りに広がる、と」

「真の世界、ね。成る程、良くできたお話だが、俄には信じがたいな」

「信じる、信じないはあなたの自由よ。ただ、わたしはわたしの見たこと感じたことをそのまま語っているだけ」

「ふむ。君には理性があるようだ。口が上手い。狂人には他人を説得するだけの力が無いのがほとんどだ。言っていることが支離滅裂だからね。だから、一番簡単な結論は、君が信者を騙しているってことだ」

「だから、それはあなたが勝手に解釈してくれればいい。わたしは……」

「ああ。だから、俺は君が嘘をついていることを前提に話を進める。多分、君は本当に世の中を良くしたいと思ってこんな活動を始めたんだろう。だが、手段が間違っている。歴史は終わった。宗教で何かができる時代じゃない。民主主義社会で、世の中を変えたいのであれば、選挙に立候補して、政治家になるべきだろう」

「……」

「それに、君の教義は一方的だ。あれでは、貧しい人は付いてきても、この国の中枢にいる人間を説得することはできないぞ」

「どう一方的だというの?」

「いいか。君は、無知なるものは、より救いに近いと言った」

「言ったわ」

「詐欺も、企みも、科学兵器も知識から生まれるからだとね」

「大筋では、その通りよ」

「だが、知識は人々を救うぜ。熱湯は細菌を殺すと言う知識が、人々を食中毒から救い、地下に水が流れているという知識が、人々を乾きから救った。現代の人類の繁栄は、そうした人類の知への意志から生み出されたものなんだ。ユートピアが来るとすれば、それは人類が知を極めたときだ」

「あなたの言いたいことは分かる。でも、そうして人類が繁栄すること自体、創造主の意志だとしたら? その可能性が高いわ。創造主の望んだとおりに歩むなんて、わたしはごめんだわ。知への意志も、欲望に違いなわ。創造主がプログラムした、ね」

「創造主の世界から脱出することが、君の教えの目的だったな?」

「そうよ」

「知とは、論理的思考を積み重ねていくその営みだ。それを止めろと、君は言いたいんだな?」

「……」

「だがな、いいか。およそ論理的に考え得ることのみが、人間の思考の限界なんだ。創造主がプログラムしたかなにか知らないが、その世界の外側に出ることは不可能なんだよ。一番避けなければならないのは、その論理の外側に、神秘の世界があると考えることなんだ。そして、何らかの方法でその世界に至れるという発想だ。本当に悪なのは、知への意志ではない。人間が知りうることの限界を知らないことだ。その限界を知り、知ることを断念すること、それが本当に必要なことなんだ。君の思想は危険だ。世界の限界を超えようとしている」

「そうね。創造主の意図に盲目的に従っている人間には、わたしの思想は危険なものに感じられるでしょうね。でもね、わたしは絶対に人々を、世界の外側に導いてみせる。創造主の創った世界の外側に、ね」

「ふう……。まるで旧東洋の禅問答みたいな話しになってしまったな。ところで喉が渇かないか」

「確かに」

 日は西に傾き始めているとはいえ、暑さはまだまだこれからだろう。冷房装置もない、クーラーもないこんな部屋にいたら、熱中症になりかねない。

「飲み物を持ってきたんだ。スポーツドリンクだ。これなら動物性の原材料も使っていないし、君の作った戒律にも反しないだろう」

「……」

 そう言いながら、カバンの中から500mlのペットボトルを取り出す。値札がついているのが彼女のものだ。間違えてはならない。

「ほら」

「あなたはあなたのするべきことをすればいい。後悔する必要はない」

「何を言っているんだ? さあ、飲めよ」

 サヤカはペットボトルのふたを開けると、三分の一ほどを飲み干した。クロウも自分の分を、一口飲む。

 サヤカは手に持ったペットボトルを突然落とした。そして、喉をかきむしり始める。

「毒を、入れたのね?」

「……」

「あ、あなたが言っていた、感染症。わたしの教えのことだったのね」

「ああ。宗教は俺の専門外だが。何せ命令なのでね」

 宗教とはある意味で、どんな病気よりも恐ろしい感染症だ。細菌・ウイルスなどの原因物質が存在しないのだから、その感染を防ぐのは容易なことではない。

「……多分、こうなるでしょうことは、分かっていた」

「分かっていた? ならば何故、毒を飲んだ?」

 サヤカは椅子から転げ落ち、まるでアリにたかられたミミズのようにのたうち回る。

「ふふふ、それは、今は言えないわね」

 そんな苦しみの中でも、彼女は不敵に笑った。

 ただのはったりだと、クロウは自分に言い聞かせた。

「ぐふう」

 彼女は喉から音を出すと、やがて動きを止めた。

 呼吸や心臓が止まっているかどうか、クロウは念入りに確かめる。

 人を殺したのは、もちろん初めてだった。だが、自分が殺したことは、発覚するまい。検死しても、心臓発作としか思えない、特殊な毒を使ったのだから。

 感染症は、原因をもとから絶たなければならないのだ。

 クロウはペットボトルのふたを閉めると、用意したビニール袋に包み、その場を立ち去った。

 クロウのもとに、突然、創造主からの啓示が下ったのは、一ヶ月ほど前のことだった。

 昼間、大学の外で食事を取ろうと繁華街を歩いていると、突然、辺りの景色から色彩が消えた。

 モノトーンの世界。

 日が陰ったのかと、空を見上げると、そこには、月の二倍の大きさはある巨大な*瞳*が浮かんでいた。その*瞳*から、クロウは目を逸らすことができなくなった。

『クロウ・フクヤマだな』

 声が聞こえた。正確には、声は耳を通して聞こえてきたのではない。*瞳*を見つめる目から、直接データが脳内に流れ込んできたような感覚だ。

「な、何だ?」

『わたしは、造物主だ。一般に、神と呼ばれる』

「こ、こんなのは幻覚だ。だ、誰か、誰か救急車を呼んでくれ」

『幻覚ではない。お前は神の姿を見ているのだ』

「ば、馬鹿な……」

 いつの間にか、辺りにあったビル群も、木々も、人々もどろどろに溶け、入り交じり、やがて全てが消え、暗黒になった。

 クロウは、中空に浮かんでいる。天も地も、何もない。

 いや……。

 上を見上げると、クロウの視野一杯に、巨大な*瞳*があった。

「な、なんなんだよ~、これは」

 クロウは、泣きそうな声を出す。

 クロウを軸に、*瞳*が九十度回転した。*瞳*はクロウの真正面に来た。 

『わたしは造物主。人間の認識しうる世界は、普くわたしが創った』

「……」

『お前に、わたしの力を見せてやろう』

 クロウは*瞳*から目を逸らせない。その目から、生のデータが脳内に流れ込んでくる。だが、彼の理性は、そのデータを理解できない。ちょうど0と1で書かれたマシン語を、一般の人間が解釈できないように。

 しかし、彼の脳の深いところでは、その生のデータを取り込んでいた。頭に次々に浮かぶイメージ、記号。混乱するクロウ。世界はメチャクチャになっていた。

『人は、空間三次元・時間一次元の四次元で世界を認識している。だが、五次元で世界を認識する能力を持ったならば、どうなるか、お前に見せているのだ』

「つ、つまり、俺のいた町並みが、五次元的解釈ではどう見えるのか、と言うことか?」

『そうだ』

「全然、理解できない世界だ」

『クロウ・フクヤマよ。お前に使命を与える』

 混乱したイメージはすっと消え、また暗黒の空間と瞳が姿を現した。

「使命?」

『世界はわたしが創った。全てはわたしのプログラムどおりに進まなくてはならない。だが、それを妨害しようとするものがいる。世界の隅の隅、プログラムのバグの吹きだまりから生まれた、*悪魔*だ』

「……」

『*悪魔*はこの世界を、わたしの思惑から逸脱したものにしようとしている。それだけは妨げなければならない。何故なら、わたしの意図から外れることは、世界の滅亡を意味するからだ』

「まさかその*悪魔*とやらに、対抗しろと言うのか?」

『*悪魔*は人間を操り、わたしの予想を超える振る舞いを人間にさせようとしている。宗教という病原菌を使って』

「……」

『宗教、恐ろしい。それは世界の限界を超えようとする営みだ。私の世界を。しかも見えぬ』

「何が見えないんだ?」

『病気の核となっている人間が、どこにいるのか、何者なのか、わたしにははっきりつかめぬ。そやつの存在は、あまりにも透き通っていて、わたしには見ることができないのだ』

「それを、俺に探し出せ、と?」

『そうだ、世界の歯車が狂う前に!』

「探し出して、どうしろっていうんだ?」

『説得を試みろ。わたしの支配に服するように。それが無理なら、排除しろ。お前にはその能力があるはずだ。わたしの推測では、病原菌はお前に近しい間柄のものだ』

「排除!?」

『宗教の感染は、お前の周囲にまで広まっている。このままその数が増え続ければ』

「……」

『守るのだ! この世界を』

「ま、まて。俺はまだ、やるとは言ってないぞ!」

『お前に選択権はない!』

 巨大な瞳はその中心から白い光を放った。クロウの肉体も魂も、光に飲み込まれて行く。

 一瞬、クロウの自我はかき消された。

 気がつくと、クロウは、もとの町並みに立っていた。正確には、クロウだったものが。

 彼は、確かに記憶はクロウのものを引き継いでいた。姿形も、完璧にクロウである。しかし、微細な何かが違っていた。

 クロウは、心の内に何かを、刻み込まれてしまったのだった。

彼は、使命感に燃えて、*瞳*から言われたことを忠実に実行しようとした。

 だから、幼い頃からつきあいのある親族を殺してもあまり罪悪感はなかった。

 だが、数ヶ月後、事態はクロウの予想を超えて振る舞い始めた。

 サヤカの創った宗教は、その入信者数を増やしつつあったのだ。

 彼女の古参の弟子達は言う。

「サヤカ様は、真実を語っていたのだ! だから、*瞳*の力によって抹殺された。だが、我々は負けない! 必ず*瞳*の視野から逃れ出てみせる!」

 サヤカの死は、逆に信者達に力を与えてしまった。

 俺のやったことは、造物主の望んだこととは正反対のことだったのではないかと、クロウは悩んだ。だが、以後造物主が彼に働きかけることはなかった。

 *反逆者*も*造物主*も、この時すでに、次の手を打っていた。

第二話はこちらから

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