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わたしの運命の人は、わたしが運命の人じゃなかった

気温はまだそこまで高くはないものの、むわっと立ち込める湿気が夏の訪れを感じさせる初夏の晩のことだった。

ひとりぼっちの1Kの片隅に置かれたシングルベッドの上。夏用の薄い掛け布団を手繰り寄せて身体に巻きつけて、寒くなんてないのに指を震わせてスマホにメッセージを入力する。
開いたトーク画面の相手は最愛の彼氏。彼氏だとはいっても、この数ヶ月間連絡は一週間に数回程度だったし、仕事が理由のドタキャン続きでもう3ヶ月以上会っていないんだけど。

「別れようか。わたしはあなたの負担になりたくない」

どんなことよりも仕事が大切な彼(彼の言動が真実であるならば)から送られてきた「今は正直仕事のことしか考えられない」というぐぅのねも出ない残酷な現実に対して、せめて最後まで聞き分けの良い彼女でいたいわたしが送った言葉。

断腸の思いで送ったそのメッセージに対して、彼からの返事はあまりにもあっけない「そうだね。ごめんね」の一言だった。
自分から別れを切り出しておいて勝手かもしれないけど、たった一言でも、残念がるような、引き止めるような言葉が欲しかった。

別れを切り出しているのはわたしの方なのに、別れたくないのもわたしの方で、その後のやりとりでも「ごめんね」「ありがとう」だけで作られた何の未練も感じさせない無機質な彼の返信が、心臓をぎゅっと握りつぶすような苦しさを生んだ。
分かりやすくて勝手な人。こんなときばっかり返信は早くて丁寧だ。

次の日も仕事だというのに、立派な社会人なのに、涙を堪えることなどできずに声を上げて夜通し泣いた。一睡もできなかった。

わたしの運命の人は、わたしが運命の人じゃなかった。

それはどこにでもあるありふれた出会いだったと思う。
別れの連絡をいれるちょうど一年前の夏。記録的な猛暑の年だった。
長く付き合った彼氏と別れた3日後、会社の同僚から「気晴らしにおいでよ!」と誘われた合コンでの出会い。

すらっとした細身で高い身長に可愛げのある顔。体型にぴたっと合わせたこだわりを感じるおしゃれなスーツ。女性のように細くてキレイな手。それでいて合コンという場への緊張を滲ませた、女性に対して無理にグイグイ来たりしない控えめな性格。
好みだと以前から公言している【細身で色白で王子様みたいな人】にぴったりハマる彼に、わたしはたぶん一目惚れしたんだと思う。
しっかり好みを把握している女性陣が気を使ってわたしたちを隣に配置してくれたこともあり、全体的にとても盛り上がった合コンの中でもそれなりに話すことができて、すんなり連絡先を交換した。

帰りの電車で同僚からの「で、実際どうよ?」という質問に「えー、結構アリ」なんて軽く答えていたけれど、その後すぐに彼から「今日はありがとうございました!」という連絡が入ったときには、久しぶりの新しい恋の予感にわくわくが抑えられなくて、熱帯夜だというのに小躍りするみたいに家までの道を辿った。

それからトントン拍子でコトは運び、合コンの数日後には二人で食事に行くこととなった。
初めて二人きり会う彼は、合コンのときの緊張した姿が嘘のようにおしゃべりで楽しい人で、加えて女性への気遣いが完璧だった。
夏風邪をひいてガサガサになったわたしの声を「俺はそれはそれ良いと思うけどね」と言ってのけ、わたしよりも3歳も年下だというのにスマートにお会計を済ませ、「明日仕事でしょ?今日は終電で帰ろうね」と駅まで送ってくれた。それでいてルックスが良いのだから、まさに王子様。
仕事のやりがいや、会社のこと、実はあの日の合コンが初めての合コンで事前にGoogleで色々調べていたことを恥ずかしそうに話す姿に、どんどん惹かれていくのを自覚していた。20代前半ですごく若いのに、仕事が何よりも大好きだと熱く語るところも素敵だなと思った。

駅までの道を歩くころには、隣で話すキレイな横顔に釘付けになっていた。
終電車に乗り込んだ後に送られてきた「また飲み行こう!」が、たとえ社交辞令だとしても嬉しくてたまらなくて、まるで高校生にでも戻ったみたいにドキドキしながら帰りの電車でスマホを固く握りしめた。

それからも毎日連絡を取り、ほどなくして2回目の食事が決まった。
驚くべきことに、このタイミングでわたしの職場から一駅の場所へと彼の異動が決まり、「職場近くなったよ」と連絡が入ったときには、これは運命だとしか思えなかった。
運命の相手に出会ったときビビッとくるなんていうのはよく聞くけれど、この短時間でここまで惹かれてしまうからにはこれは絶対にそのパターンだ。これは運命の出会いなのだ。そうとしか考えられなかった。

会社で同僚から「例の王子様とはどーよ?」と聞かれるたびに「わからないよ〜」などと答えていたわたしの顔は、きっとどうしようもなくニヤけていただろう。

あっという間に当日はやってきて、彼の仕事が終わる時間に合わせてわたしも仕事を終え、メイクを直してお気に入りの香水を纏い、最高の状態で会社を飛び出す。夏の熱気とネオンの中を、彼のことを想いながら駆け出した。たった一駅の距離がひどくもどかしかった。

はやる気持ちを抑えきれずに少し早めに到着してしまい、「着いたよ!」という連絡を入れて彼を待つ。好きな人を待つ時間というのは、どうしてこんなにも歯がゆくて落ち着かなくて幸せなんだろうか。まるで雲の上にでも乗っているみたい。

「よおっ」

不意にかけられた声に胸がドキッと跳ねるのを感じた。顔を上げればそこには待ち望んでいたその姿。少し照れたように合った視線を逸らすところが可愛いな、と思った。真夏だというのに、彼の周りだけ爽やかな風が吹いてるみたいだ。

「お疲れさま!」

そう声をかけて、すごい速さで脈打つ鼓動がバレないように気をつけながら夜の街へと繰り出した。

初めて食事に行ったときと同じく、いやそれ以上に、彼と過ごす時間は素晴らしいものだった。
旅行に行った話や、家族の話など、前回よりももっと深い情報の交換をし合って、わたし達はお互いのことを知り合った。彼もずっと笑っていて、すごく楽しそうにしていた。自分の話で彼が笑ってくれることがどうしようもなく嬉しかった。
気づけば3件もはしごしていて、あっという間に終電の時間はやってきた。

「そろそろ帰らなくっちゃ」

そう声をかけて、席を立とうとしたとき。

「帰るの?」
「え」
「俺、泊まってこうと思うんだけど」

それなりの経験をしてきた良い大人であるわたしは、それが一体なにを意味しているのか、お酒でぼんやりした頭でも瞬時に理解できてしまった。

「帰るよ、明日仕事だもん」
「えー、帰っちゃうの?」
「帰るよ」
「帰んないでよ」

恋愛のセオリー通りに進めたいのならば、ここで一線を越えてはいけない。
そんなこと言われなくても分かってる。分かっているけれど、好きな男に引き止められて断れる女なんて、じゃあ一体どれくらいいるのだろうか。

促されるままに近くのシティホテルへなだれこみ、その夜わたし達は一線を越えた。

「年下ってどう?」

そんなことを最中にわざわざ聞いてくる彼がずるくて愛しかった。
ツインの部屋を取ったのに、わざわざ一つのベッドで身体を寄せ合って眠る彼のことを好きにならない方法があったのならば知りたかった。

翌朝二人でホテルを出て、何事も無かったかのように仕事へ向かう。
朝だというのに強い日差しが照りつける蜃気楼の中で、「じゃあね」なんて、本当に何も無かったみたいに涼しい顔で手を振って反対の方向へ去っていく彼の背中を、見えなくなるまでずっと見ていた。

それからというもの、俗に言う【曖昧な関係】というやつが続いた。

連絡は変わらず毎日取っていたし、一週間〜二週間に一度くらいのペースで食事に行った。そして会うたびに身体を重ねることが当たり前になった。
休みが合わないわたし達は、平日にギリギリまで仕事をしたい彼の職場の近くまでわたしが赴き、食事をしてホテルに向かう。それが定番の流れ。
会えば彼は相変わらず必ずわたしを女の子扱いしてくれて、とにかく優しい。なんてったって髪の色やネイルの変化にだって気づける男性なのだ。
仕事を理由にドタキャンをされることも何回に一回かは出てきたけれど、仕事をひたむきに頑張るところも好きだったので、全く気にならなかった。
外では常に紳士的なくせに、ふたりきりになると子供みたいにちょっかいを出してきたり子猫のように甘えてくるところが、あたかも特別な存在になれたみたいで愛しくてどうしようもなかった。
食事をしたあとにタクシーに乗り込んだ瞬間、「ん」とだけ言われてキスをせがまれたとき、胸の奥からキューッっと何かが湧き出して「あぁ、もうなんでもいいからこの人が好きだ」と心底思った。
タクシーで東京の夜を走り抜けるときは、いつも世界にわたしと彼の二人きりになってしまったみたいだった。

だけど、夜通し言葉を交わして、身体を重ねて、お互いのことをどんどん知り合っていったのに、わたしたちは冗談でも「好き」だとか「付き合おう」みたいな気持ちを確かめる言葉だけは一言も交わさなかった。
いや、わたしの場合は言い出せなかっただけなんだけど。

20代の恋愛なんてそんなものだろう。改まった「好きです、付き合ってください」から始まらないことだって多い。
そう自分に言い聞かせて踏ん張っていたけれど、こんなに会っていて大好きで夢中なのに人様に堂々と彼氏だと話せない現実と、なにより一度も「好きだ」と言われていない事実は、じわじわとわたしの首を締めていった。

いつの間にか次の季節がやってきていて、少しずつ冷たい乾いた風が吹く頃には、毎回「今回こそは確認しよう」「これで最後にしよう」と心に決めて会いに行っては、まるで彼女のように扱ってくる彼に対して結局何も言い出せず、翌朝帰ってひっそり枕を濡らすようになっていた。

周りからは「本当にそいつ大丈夫?」「なんでハッキリさせないの?」などと言われるようになっていたけど、それでも好きな気持ちは抑えられなくて、会えなくなるよりマシだと本気で思っていた。

「俺たち夜しか会わないじゃん?昼から遊びたいんだよね」

気づけば彼と最初に一線を越えてから3ヶ月が経っていた。
彼に対する想いは日に日に膨らみ続けるのに、それでも全く変わらない関係にいい加減しびれを切らしていたわたしは、「今回こそはちゃんと確かめよう」と、できもしないくせにまた心に決めて食事をしていたときのこと。
いつもと何も変わらないテンションであまりに突然告げられたその言葉を、理解するのに少し時間がかかってしまった。
今、昼から遊ぼうって言った?

「どっか出かけよ。平日で有給取れる日とかありそう?俺もそれに合わせて休み取るからさ」
「え、あぁ、うん、いいけど」

しどろもどろになりながらも、所謂お昼デートのお誘いに喜びが湧き出て止まらない。一日一緒にいられるなんて嘘みたいだ。
これは、わたしがただのセックス要員じゃないのだと解釈してしまって良いのだろうか?
いやいや、そんな期待しちゃいけないよ。
必死に自分を守るための論争を頭の中で繰り広げてはみたけれど、「じゃあカレンダーに名前入れとくね」と、目の前でわたしの名前をスマホに打ちこむ彼を見ていたらそんなことはどうでも良くなった。

どこに行こうか、何をしようか、そんな話で盛り上がり夢のような夜を過ごしたわけだが、結局この日も「好きだ」とか「付き合おう」という言葉を聞くことは叶わなかった。

それから数週間後、待ちに待ったその日がやってくる。
食欲の秋だというのに、たった数週間で会社の同僚たちからは痩せた!と言われるほどダイエットを頑張り、エステに行き、ネイルもこの日に合わせて新しくした。洋服も靴も買った。
準備は万端だ。

楽しみすぎて深く眠ることなんてできず、待ち合わせの時間は13時だというのに7時には起きてしまった。会社に行くより早いじゃないか。

全身全霊をかけて今の自分が出せる最高級を纏い、今にもスキップしてしまいそうな自分を抑えて家を出た。どうかここに帰ってくる自分が笑っていますように。

「ごめん、今起きた」

待ち合わせの時間まであと30分。話したいこと、伝えたいことをあれこれ考えながら電車に乗りこんだとき、そのメッセージは送られてきた。

「もー!気をつけておいでよ?」

彼女でもないくせに怒ったり拗ねたりなんかして面倒くさい女だと思われたくなくて、必死に聞き分けの良い女を演じた返信を送ったけれど、心には冷たい闇がどんどん広がる。身体がしぼんでくみたいに力が抜けた。

眠れないほど楽しみにしていたのはわたしだけ。彼にとっては絶対に遅刻できない予定では無かった。その事実があまりにも苦しくて、電車の中だというのに大声を上げて泣き出してしまいたかった。

結局、彼が到着したのは当初の待ち合わせ時間から2時間が過ぎた頃。
空いた時間を過ごすために入ったカフェで頼んだカフェラテの氷はすっかり水になってるし、お気に入りのアイシャドウの大粒のラメは幾らか二重の溝に溜まってしまってる。

だけど、幸か不幸かわたしは大馬鹿者なのだ。
待ってる間は落胆と哀しみと少しの怒りで張り裂けそうだったのに、わたしがいるカフェに大慌てで入ってきては人目を憚らず頭を下げて謝る姿を見た途端、マイナスの感情は全て消えてしまったんだから。
なんなら初めて見る私服にカッコイイとすら思ってた。

合流さえしてしまったら、彼と過ごす時間は麻薬のように楽しい。
まずは腹ごしらえと入った中華料理屋さんで、二つのメニューで悩むわたしに「じゃあ俺がもう一個の方頼むよ」と言ってくれる彼は相変わらず王子様だったし、アトラクション施設でけらけら笑って無邪気にはしゃぐ姿には、年下らしさを感じて今にも抱きしめたくなった。
シャンプーボトルが欲しいわたしに付き合ってインテリアショップを周ったときには、いつか本当に一緒に住む家のインテリアを選ぶ日が来ることを心から祈っていた。

またたく間に時間は過ぎて、ディナーは彼のおすすめだというイタリアンに入った。

「最近合コンとか行ってるの?」

スパークリングワインで乾杯し、アペタイザーをつまんでいるとそんなことを聞いてくる。

「それなりにかなあ」
「ふーん、良い感じの人とかいた?」

なんでそんなことを聞いてくるんだろう。少しずつ回ってきたアルコールが覚めるほどに、心はフッと冷静になった。

「いや、いないよ」

嘘でも実は良い感じの人がいると答えて嫉妬でもさせてやりたい気持ちもあったけれど、そんなことを言って引かれてしまうことの怖さと、何より自分の気持ちに嘘はつけずにそう答えた。
一瞬の間をおいてから、彼は少し困った顔をして続ける。

「………俺の前でそれ言うの?」

え。今なんて?

「俺さ、連絡するのとか本当は嫌いなんだけど、すごいマメに返してるわけよ」

驚きと言葉の意味を理解することに精一杯で、まともに返事ができないわたしに彼はどんどん続ける。

「大人気ないけど0か100しか無い人間だからさ、好きじゃなきゃ会ったりしないの」

これは、そういうことで良いのだろうか?
今までも彼はずっと優しかったけれど、ここまで好意を滲ませた言葉を発してくるのは初めてだった。
嘘みたいに浴びせられる言葉を曖昧に流しながらも、余計な期待をしたくなくて、現実なんだと信じられなくて、わたしはあえてすぐに酔いが回ってしまうワインを呷った。彼の言葉は鮮明に覚えているのに、自分がどんな返事をしたのか記憶が無い。

「俺の前で酔っ払うのは良いけど、気をつけてよ?悪いやつだっているんだからね」

そんな、期待させるようなことばっかり言わないでよ。
デザートを食べ終わる頃にはわたしはすっかり出来上がってしまっていて、足元をふらつかせながらも店を出た。
もうすぐ冬がやってくることを予感させる、冷たい風が頬を撫でる。

「今日は帰ろうか」

こんな日ばかりそんなことを言うんだ。ちゃんと自分の立場をわきまえたわたしは、化粧品を一式持ってきてるのに。
大通りから一本入った誰もいない薄暗い道。目の前に立つ広くて薄いこの世で一番大好きな後ろ姿。自制が効かないアルコールの回りきった頭。どこか寂しさを感じさせる晩秋の夜。
もうこの気持ちを抑えていることは不可能だった。

「ねえ、わたしと付き合う気はないの?」

今までずっと聞けなかったその問いかけが、びっくりするほど簡単に口から飛び出した。返事までの数秒間は、きっとこの世で一番長い数秒間。

「え、そっちはいいの?」

ゆっくりと振り返って発せられた言葉は、あまりにも意外なものだった。

「いや、わたし3つも年上だし」
「俺が年齢とか気にするやつだと思う?」
「そうだけど、わたしはずっと好きだったんだよ」
「そうなの!?」
「そうだよ!ずっとこの関係は何だろうって気にしてたんだから!」

こうなればもうヤケクソだ。今までずっと我慢していた分の気持ちを彼にぶつけた。

「ねえ、付き合ってくれる?」

ここまでくればOKをもらっているようなものだけど、なぜだか彼は逡巡していて、少ししてわたしを一瞥した後にこう言った。

「そんな酔っ払ってるときの言葉じゃ嫌だから、シラフのときにまた聞かせて?」

この男は、一体どこまでわたしを夢中にさせたら気が済むんだろう。

数日後、わたしは営業終了後の彼の職場に赴いた。
営業終了後の職場に忍び込むなんて、すごく悪いことをしているみたいで余計にどきどきした。
にやにやしながらわたしの言葉を待つ彼だったが、シラフの状態で面と向かって告白なんかできるはずがなくためらっていると、「じゃあ、これからよろしくね」と彼が左手を差し出してくる。
そっか、左利きなんだった。この状況でなんでかそんなことに愛しさを感じながら、「うん、よろしく」とその女性みたいに細くて美しい手を握り返した。
もう何度も朝を迎えたわたしたちなのに、今さら握手で始まるなんて初々しくてくすぐったかった。

わたしは名実ともに最愛の人の彼女になったのだ。

それからの毎日は、見違えるほど輝いていた。
朝起きて、自分は大好きな人の彼女なんだということを噛みしめる。季節はすっかり冬になったのに、常にあったかいお湯に浸かっているみたいに生きてることが心地よかった。我慢しないで好きだと伝えられることが嬉しかった。
仕事でどんなに嫌なことがあっても、どんなツイてないことが起きても、ものすごい寒波が押し寄せる日に営業に行かなきゃいけなくても、自分は彼の彼女なのだという事実だけでなんでも頑張れた。無敵だった。
幸せすぎて、このまま死んでもいいとすら思った。その昔【I love you】を【死んでもいいわ】と訳した二葉亭四迷は間違いなく天才だと思う。

それはたとえ、2回に1回は約束をドタキャンをされるようになっても、クリスマスの誘いを仕事だから会えないときっぱり断られても、初詣に行く約束をまた2時間以上遅刻されたとしても。

結論、付き合ったからといってわたしが望むような甘い日常が待っていたわけではなかった。
むしろ、彼はわたしよりも仕事を圧倒的に優先するようになった。一ヶ月に一度会えれば良い方になり、連絡の頻度も三日に一回返ってくれば御の字だった。

これから先もずっと一緒にいたいのであれば、ここで喧嘩をしたり話し合いの場所を設けてすり合わせをするべきなんだと思う。だけど、わたしは彼のことが好きすぎて、不満なんて一つも伝えることができなかった。
それどころか【そんな彼を支えられるのは、好きでいられるのはわたししかいない】そんなくだらないプライドを持ち続け、どんなことでも受け入れて、心のどこかが泣いている声に聞こえないふりをした。
どれだけドタキャンをされても、会っているときに疲れた様子を見せられても、隣で眠るときに分かりやすく反対を向かれても、聞き分けが良くて従順な彼女を演じ続ける。

連絡はなかなか返ってこない。会うこともままならない。
そんな状況下でも大好きな彼の彼女である事実だけがわたしを奮い立たせていたけれど、冬も終わりに近づき日ごとに春を感じる暖かな日が差す頃には、最早自分は彼のことが好きなのか、彼との思い出が好きなのか分からなくなっていた。

「誕生日お祝いしたいからお休みの日教えて?わたしも有給取るから休み合わせよう」

春生まれの彼の誕生日が近づいてきた。彼女として、せめて誕生日くらいはちゃんと祝わせてもらいたくて、当日じゃなくても良いから一日会える日を打診した。
祝う側なのに祝わせてもらうってちょっとおかしいのかもしれないけど、【彼女】って立場にこだわってなきゃやっていられない。

誕生日祝いだからなのか案外すんなり日程は決まり、わたしの家でお祝いすることになった。
これは料理の腕の見せドコロ。流石に有給を取った日であれば会えるだろうと信じるわたしは和食を作り、年齢のロウソクを刺したホールケーキも用意することにした。
外はすっかり春の陽気が訪れていて、買い出しに向かう途中に桜のつぼみがぷっくり膨らんでいるのを見つけてわくわくした。

約束の時間は13時。
買ってきた材料を一人暮らし用の手狭なキッチンに広げ、間に合うように調理を始めるとポヨンッとスマホが鳴った。

「ごめん、顧客対応でちょっと送れる」

仕事行ってるんかい。
少しムカっとしたものの、この頃には多少の遅刻くらいはどうってことなくなっていたので、特に咎めることもなく「分かった〜!頑張って」と労いの返信をして調理を続けた。

時刻はまもなく約束の13時になろうとしたとき、「今終わった!向かう!」と連絡が入った。
彼の職場からわたしの家までは大体45分程度。料理は完成している。部屋を少し片付ける時間もある。完璧だ。
カーペットに延々とコロコロをかけて無限に出続ける毛玉を取り、待っている一分一秒が惜しくて乗っているはずの電車を検索してみたりしながら、わたしは彼の来訪を待った。だって会えるのは一ヶ月ぶりなのだ。

しかし、一時間待っても二時間待っても、日がくれてしまっても、この日彼が我が家に来ることはなかった。

「やっぱり急な対応が入って遅くなる」
「ごめん今日は行けそうにない」

立て続けにそんな連絡が入り、結局有給を取った日すらも会うことは叶わなかったのだ。
やたらと綺麗に掃除された部屋と、冷蔵庫に用意されているご丁寧に名前の書かれたネームプレートが乗っているホールケーキが、わたしの心を深く抉った。わんわん泣きながら食べた自分の料理は皮肉にもすごく美味しかった。

それから一週間が経った。
ドタキャンされた日にあまりの苦しさから絞り出した「一度電話が欲しい」というワガママですら、なにかと理由をつけて応えてはもらえなかった。結局あの日は終電で帰ってすぐに寝落ちしてしまったらしい。

さすがのわたしもしばらくは落ち込んでいたけれど、思い切り泣いたり周りの人たちに話したりしていれば、一週間も経つ頃にはなんとか気持ちに折り合いをつけられていた。そんなときに不意にやってきた彼からの連絡。

「どうしよう、助けてほしい」

何ごとかと思って話を聞けば、酔っ払って鞄をまるごと無くしてしまい、一文無しになってしまったとのこと。幸いスマホと鍵はポケットに入っていたけれど、それ以外は行方不明らしかった。
つまりはお金を貸して欲しいという話。
一週間前にあんなことをしておいて都合が良すぎると思ったけれど、「数日間の食事が賄える2000円でいいから」と頼ってくる彼を心から憎むことなどできず、数日後、彼の仕事の休憩中に会うことが決まった。

人が変わったみたいに無理矢理にでも予定を合わせてくる彼に失笑してしまったが、こんなことになってでも会える喜びの方が大きかった。会える口実ができるならばなんでも良かった。
きっとこの頃のわたしは完全に壊れてしまっていたんだと思う。

春もいよいよ本番になっていて、彼の職場がある通りでは桜並木が満開の花を咲かせている。せっかく抜群のお花見スポットに来たというのに、この日の天気は生憎の冷たい雨だった。

「あ、お疲れ。えーっと、この前は本当にごめんね」

なんとなく予想はできていたけれど、案の定彼はこまめな連絡を寄越した上できちんと時間通りに現れた。
わたしの顔を見るなり眉毛を下げて、開口一番謝罪を口にする。
久しぶりに見た彼はどれだけ季節が移り変わっても変わらず魅力的で、この期に及んでその声色も所作もルックスも、本当に勝手なところさえも、やっぱり全てが好きだとこの期に及んで思った。

傘も差さずに職場から飛び出してきた彼に歩み寄って、自分の傘の中に入れた。ふわっと香る香水が様々な思い出を呼び起こして、胸をギューッと締め付けた。
わたしは嫌味の一つすら言うこともなく、「で、大丈夫なの?」と話を本題に移す。
この数日間は、会社の人たちに助けられてなんとか生活していたらしい。

目についた雑居ビルのエントランスに入って、自分の財布からお札を数枚抜いて渡す。
「これで餓え死ななくて済むよ!」と彼は大げさすぎるくらいありがたがって「ちゃんと素敵なディナーと共に返すからね」なんて意気込んでいた。本当に調子が良いんだから。
直感だけど、そんな日は一生来ないような気がしていた。

再び傘を差して大通りへ出ると、満開の桜がわたし達を包みこむ。
冷たい雨の中をひらひらと舞い散る数え切れない薄紅色の花びらが、まるでこの関係の終わりを告げているみたいだった。
一つの傘の下、ぴったりと肩を並べて歩いているのに、そこには絶対に埋めることのできない心の距離が横たわっている。

「じゃあ、気をつけてね。また連絡する」

お互い仕事に戻らなければならないこともあって、少し急いだ様子で送り出される。目が合うと恥ずかしそうに逸らすところが、思い出と何一つ変わらなくて苦しかった。

30分にも満たない必要最低限のやりとり。しんしんと降りしきる雨と、薄紅色に包まれて手を振る姿。それが、彼と会った最後の記憶。

この一年間を思い返してみれば、好きになったのも、付き合おうと踏み込んだのも、別れようと決定的な言葉を発したのも全部わたしだった。
彼から「好きだ」と明言されたことは、遂に一度も無いまま終わってしまった。

好きだからという免罪符で、召使いみたいに歩み寄って従って察して行動していたけれど、本当の彼の気持ちが分かったことなんて、出会ってから一度として無かったんだと思う。

【二番目に好きな人と結婚した方が良い】とはよく聞くけれど、たぶんそれは先人と確かな知恵だ。
人は、本当に好きな人に出会ってしまったら壊れてしまう。好きだという気持ち以外の自分の意志を失ってしまう。

泣き腫らした目でなんとか出社して、回らない頭を必死に動かして一日の業務を終わらせ、やっとの思いで定時になった。
会社のビルを一歩出たら、むせ返るような熱気と輝く都心のネオンに包まれる。一年前、心を踊らせて彼に会いに走ったときと変わらない夏の匂いが鼻の奥につーんときて、涙が堪えられない。

世界で一番大好きだった。たぶん、彼はわたしの運命の人だった。

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