「好き」が生を奪う時
みなさん、こんばんは。禧螺です。
今日もnoteをご覧いただき、ありがとうございます。
本日はまとまりない散文ですが、いろいろ考えてきたことを。
自分の成長を感じるところは、意外と生活圏の随所に現れるようで、それもあっけなく自覚するものなんだなぁと思いました。
他人と比べてどう、というものではなく、以前の自分と比べると、変化しているのが分かるのです。
あの時の私なら、きっと気持ちをコントロール出来なかっただろうに、劣等感でいっぱいになって落ち込んだだろうに、穏やかな気持ちで「すれ違ってもいいや」と思える。
本当に縁が続く関係なら、双方がその関係を手入れしていくはずだから。
相手に任せきりにしない。
💕
noteを始めた頃、実生活において「人との関係は、ほどほどでなければならない」と思っていました。
実生活で、自分なりには精一杯に人間関係を手入れしてきたけれど、そうして熱くなることは、相手には負担だったようです。
それに気が付くことが出来なかった。
気付いていたかもしれないけれど、気付いていないフリをしたのかもしれません。
「その人と関われている」と思えることは、心地よいものですから。
そう思ったままでいたかったのかも。
「禧螺とは同じ熱量では返せない」
こう言われたことがあります。
同じ人間ではないので、当たり前です。
私はそれでもいいというけれど、相手は足りないと思っている。
その「足りない」と思う気持ちは、次第に相手を疎んじるものへと変わっていく。
だからこそ、そう言われた時点で、私も相手も、お互いを手放すタイミングだったのでしょう。
それを、手放す怖さのあまり持ち続けていると、今度はお互いを蝕む凶器になります。
双方が手放せない気持ちであるならば、なおさらです。
「好き」という気持ちそのものは、尊いもの。
その気持ちが、誰かの明日を繋いでいる。
でも、食い違いが起こると、誰かの明日を奪うものになりかねない。
特に自分自身ではなく、自分と他者との関係に心がけていることです。
「好き」の意が相手にも伝わっていないと、人を傷付けてしまうこともあり得ます。
その意を自分に都合の良いように置き換えないで、相手の言いたいことをそのまま受け取ることも、大切なこと。
これが極端な形で表れた一つが、ストーカー等の犯罪ではないでしょうか。
他人に好いてもらう方法よりも、自分を好きを極める方法や心構えの方を磨きたい。
どうして自分の人格や能力を、人に委ねないと認められないように教え込まれるのか。
今では他人に好いてもらうことが、自分の生死に関わることになっていると言ってもおかしくない。
もちろん、この地球で生きていくには、死なない限り、誰かと生きていくことになります。
でも、相手が自分に対して言う「好き」「嫌い」だけで、直接生死に食い込んでくるのは怖い。
それは本当に、自分が生きていける縁だと言えるのだろうか。
「人間関係は面倒くさい」と誰かが言っていた。
でも、その面倒くささに、誰かと関わること・生きることの真髄があるように思える。
「好き」「嫌い」を簡単に表現出来るようになった分、私たちはその言葉の力を、まだ甘くみていることがある。
感情だけでは、関係を手入れできるとは言えない。
「好き」を、誰かの明日に繋がる言葉にしたい。
💕
トップ画像は monacooc様 からお借りしました!
ありがとうございました。
みなさんに、ここで出逢えて嬉しいです。
この記事にお時間をいただき、ありがとうございました。
それでは、今日はここまでです。
みなさんの本日が、素敵なものでありますように。
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