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まじょ子さんとケーキを食べないミライの話

 私の知っているまじょ子さんは、杖を振らない。

 街の外れにある森の、入口からうんと遠く。風に揺れる木々の間を抜けて、冬にはかちんこちんに凍る透き通った泉を通り過ぎて。細い道をひたすらに真っ直ぐ行くと、ぽっかりと開けた広場に丸太と煉瓦でできた小さな家が現れる。
 木でできた頑丈な扉を2回叩いてゆっくり開けると、漏れてくるのは焼き立てのケーキと淹れ立ての紅茶の香り。ティーポットの向こうに、こちらを振り向くまじょ子さんが立っていた。今日は深い緑のローブ、ボブの髪の毛は瞳と同じ真っ黒で、まじょ子さんが動く度にさらさらと揺れている。

「まじょ子さん、こんにちは!」
「いらっしゃい、ミライ。いつもありがとう、助かるよ」
 ミライの家は野菜やお肉、お魚を売っている、街一番の商店だ。父と母が営むその店は朝から夜まで大繁盛で、ミライは三人姉弟の長女として、学校が終わるといつも店を手伝うのがお決まりだった。
 月に二度、ミライはまじょ子さんの家に、新鮮な野菜やお肉、お魚を持ってお遣いにやってくる。
「今日はいくら?」
「お父さんがいらないって。この前の薬のお礼だって言ってた」
「それじゃあ割に合わないよ。これを父上と母上に渡しておくれ」
 食材を受け取って空になったかごに、ぴかぴかの金貨を何枚か、まじょ子さんがそっと落とす。なくさないように帰らなければ、と背筋をぴんと伸ばしたミライが礼を言うと、まじょ子さんはそっと笑って椅子を勧めた。
 いつも所狭しと不思議なものが置かれている木のテーブルは、本日はお茶会仕様。ミライのお気に入りの食器とティーカップが、当たり前のように置かれている。
「ニライとカナイは元気かい?」
「うん、この前の風邪は治って、二人とももうすっかり元気。お父さんもお母さんも安心してた」
「それは良かった」
「まじょ子さんの煎じてくれた薬のおかげだって、ニライもカナイもありがとうって言ってたよ」
 ミライよりうんと下の、まだ学校に行く年齢ではない弟二人は、この森を抜けることがまだできない。だからお遣いはミライだけの特権で、とっておきの楽しみだ。朝から晩まで仕事に追われるミライの両親や家と違って、この家には不思議な時間が流れている。誰かに急かされるわけでも怒られるわけでもないこの時間が、ミライにはいつも特別だった。この場所ではいつも、まじょ子さんはミライをミライとして見てくれる。
「ミライ、今日は一緒にケーキを食べよう」
「いいの?」
「お前と食べようと思って作っておいた」
 まじょ子さんが指を鳴らすと、綺麗に盛り付けられたシフォンケーキが大皿に載って現れた。魔法で食べやすい温度までしっかり冷やされたそれはしっとりと美味しそうで、滅多に甘い物を食べることができないミライにはご馳走だ。
 焦げ茶色に近いのはチョコレート、所々に茶葉が覗いているのはアールグレイ。好きなのをどうぞ、と言われて、伸ばしたミライの手は突如ぴたりと止まった。視線がきょろきょろと彷徨っているのは、後ろを向いているまじょ子さんにはすっかりお見通しだ。
「ミライ?」
「……えーっと、」
「どうした。好きな方をお食べ」
 まじょ子さんの作るお菓子は、いつでも何でも美味しいことで有名だ。特にシフォンケーキは、いつも新鮮な食べ物を届けてくれるお礼だと言って、ミライの家にもよく届けてくれる。ニライもカナイも、もちろんミライも争うように食べるので、揃って両親に怒られるほどだ。
「……じゃあ、こっちにする」
 そっと小皿に取り分けたのは、アールグレイのシフォンケーキ。最近はすっかりこちらを食べるのが定番になってしまった。もちろん美味しいことは分かっている、けれどミライの口調はどことなく沈んでしまう。
「本当にそっちでいいのかい?」
「……」
「ミライ、何でもまじょ子さんに言ってごらん?」
「……だって、怒られるんだもの」
 お姉ちゃんだから、お姉ちゃんなのに、お姉ちゃんでしょ。チョコレートに手を伸ばす度母にそう叱られた瞬間が、ミライの頭の中にまざまざと蘇る。だから我慢して我慢して、少し背伸びしてアールグレイのケーキを選んでいた。まじょ子さんと二人きりのティータイムでは、クッキーとホットミルクだから、そこでは何かを選ばなくて済む。少し我慢したらいいだけだと、自分に言い聞かせて。
「チョコレート、食べたらいけないの。お姉ちゃんだから、弟たちに譲ってあげなくちゃ」
「ミライ」
「……我慢、しなきゃなの」
「ここにはニライもカナイもいない。私とお前と、二人きりのお茶会だよ。だから我慢しないで、好きなことを言っていい」
 ここではお前はお姉ちゃんじゃないし、私はお前の弟じゃない。チョコレートもアールグレイも好きで作ってるんだから、お前も好きな方を食べるといい。
「お前がたくさん我慢していること、私は知っているよ。母上に怒られても拗ねた顔一つ見せないで、ニライとカナイにケーキを食べさせてやっていることも、お前が本当にアールグレイを美味しいと思ってくれていることも知っている。だから、ここにくる時くらいは、ミライのままでいてほしいと私は思うよ」
 朝早くから夜遅くまで働く両親は、長女であるミライを誇りに思っているし頼っている。期待も込められた言葉であることは、もしかしたらまだ伝わらないかもしれないけれど。
「私はお前の好きなものが知りたい。何が好きで、何が嫌いで、どういうことで幸せになるのか。ミライ自身と楽しくお茶をしたいから、ここに来てくれるのが嬉しいんだよ」
 ホットミルクをそっと置いて、まじょ子さんはミライの明るい髪を掬うように撫でた。
「ご両親も忙しくて言葉が足りていないかもしれないけれど、お姉ちゃんだからお前が好きなのではない。他でもない、ミライだから大好きで、大事にしたいんだよ。そしてそれと同じくらい、ニライやカナイのことが大好きで大事なんだ。自分達と同じように、お前にも、二人のことを大切にしてほしいと願ってる」
 こくり、とミライの小さな頭が縦に揺れる。物わかりの良いところはミライの美点で、しかし欠点でもある。
「だけどね、ミライ。嫌なときは嫌っていっていいんだ」
「え……」
「悲しいときは悲しい、辛いときは辛い。そんな風にお前の気持ちが知りたいし、お前がその時どう思っているのか、ご両親には知る権利がある」
「……だって、困るでしょう? 私がそんなこと言ったら、お父さんもお母さんも困って、怒って、ニライもカナイも泣いちゃって……」
「それでも、お前の気持ちが大切な時はあるよ」
 言い切るまじょ子さんの声が、力強く優しく、ミライを包み込む。周りが困るから、私がお姉ちゃんだから、そんなものが、ミライの気持ちを阻む理由にはならない。
「そんな一言でお前を嫌いになる人はいない。だって、お前達は家族なんだからね」
 もちろん私も、そのままのミライが大好きだよ。
 取り分けた小皿をチョコレートが載ったものと交換しながら、まじょ子さんはミライの隣の席に腰を下ろした。冷めないうちにお食べ、と差し出されたフォークの向こうで、つやつやと光っているチョコレートのシフォンケーキ。
「……本当は、ね。チョコレートのケーキが、大好き。いつも食べられなくて、少し悲しかった」
「そうか」
「っ、でも、でもね! アールグレイのケーキもとってもおいしいの、本当よ!」
「あぁ、分かっているよ」
 まじょ子さんには、それがミライの本心だと分かっている。チョコレートを頬張る二人が美味しそうに食べるのを見るのが、とっても嬉しかったことも。
「いつか、ニライとカナイが大きくなったら、もしかしたらアールグレイの方が気に入るかもしれない。一口ずつ交換してくれるかもしれない。そしてご両親は、二人に言うだろう。ミライを大切にしてね、小さい頃は貴方たちの面倒をたくさん見てくれたのよ。きっと二人は、ミライにありがとうと言って、ケーキを選ばせてくれる」
 まじょ子さんが話す未来は、どれも本当のように聞こえるから不思議だ。ミライはようやく顔を綻ばせると、そっとケーキにフォークを入れた。
「……おいしい」
「良かった。それは何より」
「まじょ子さん、今度作り方教えてくれる? ニライとカナイにも、いつか作ってあげたいの」
「喜んで。まじょ子さんとっておきのレシピをミライに授けよう」
 まじょ子さんのケーキは、食べる相手のことを想って作るから美味しくなる。その秘訣を既に持っているミライが作るケーキは、更にとびっきり美味しいだろう。
「さぁ、じゃあ今日は、ミライの話を聞かせて?」
「うん! 今日はね、学校でね……」
 ミライの弾む声が、暖かな小屋の中に満ちる。アールグレイを頬張りながら、まじょ子さんは心地よいその音に耳を傾けて、ミライの好きなこと、楽しかったことを、一つひとつ覚えていった。
 家に帰れば、ミライは再び二人のお姉ちゃんになる。けれどそれが嫌なことではないと、賢いミライはもう知っている。

Fin.

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