「応援」を「重荷」にしてしまわないために。
何度かnoteにも書いているけれど、私は手紙を書くのが好きだ。
ファンレターも年に数回は書いている。
だから先日の Next Ballpark Meeting で荒波さんが「ファンレターはちゃんと読んでいる選手が多いですよ」と言われたとき、私の手紙も読まれただろうかと嬉しい気持ちになった。
その一方で、何か負担になるようなことを書いていなかっただろうか、という不安も感じた。
ファンレターはもちろん読んでもらうために書いているものだけど、心のどこかでは「たくさんきている中でわざわざ読まれないだろうし」と思う自分もいる。
これまで、実際に読んでくれている姿をイメージしたこともなかった。
中身は応援の言葉ばかりとはいえ、負担になるようなフレーズを入れていなかっただろうか、知らずに失礼なことを書いてしまっていなかっただろうか、と過去に送った手紙を思い返す。
と同時に、やっぱり住所を書かずにファンレターを出し続けてよかったな、とも思った。
「何か返さなければ」「いつか会ったときに覚えていなければ」
というプレッシャーを、自分の好きな選手には感じてほしくないからだ。
もちろん覚えていてくれたら嬉しいし、返信がきたら家宝にして末代まで伝え残すほど喜ぶと思う。
でも私がしたいのは「応援」であって、彼らが楽しく野球をすること、そして試合で活躍してもらうことが一番の喜びだ。
だからこそ私は、選手が怪我をしたりなかなか一軍に上がれないときのような、辛いときにこそ応援の言葉をしたためたいと思う。
自分に何かをしてもらうためではなく、自分が少しでも相手の力になるために。
ファンサービスは嬉しいけれど、無理にがんばろうとしすぎないでほしいとも思う。
「やらなきゃ」ではなく「やりたい」と思って対応してもらえる方が、お互いにとってもいいと思うから。
そのために私たちファンも、選手がファンサービスをしたいと思ってもらえるような行動を心がけないといけないのだけど。
応援は、ともすると重荷になることもある。
お母さんが子供に夢を託すように、自分の夢と応援する相手の夢を混同してしまうと、本来は「あなた」がだった主語が段々と「私」にすり替わっていく。
私はこんなにしてあげているのに、
私はもっとこうしてほしいのに、
私が、私が…
と欲望は果てしなく続いていく。
大好きだからこそ、私のためではなくあなたのためにがんばってほしい。
そんな気持ちで彼らの姿を見守っていけたら、と私は思っている。
負担にならないように応援することは、自分の人生を生きることでもある。
自分の代わりに何かを叶えてもらうのではなく、私もがんばるからあなたもがんばってね、と違うゴールに向かって共に走っていきたい。
もらったパワーを自分がやるべきことに向けることで、循環する幸福の総量が大きくなっていくはずだと思うから。
私は10年ちかく1人の選手をずっと応援しつづけているけれど、月日が経てば経つほど応援の難しいなと思う。
何をされたら嬉しくて、何を負担に感じるのか。
それは本人にしかわからない。
ただ、唯一確実に言えるのは、「自分」ではなく「相手」を主語にして想像することが、応援の第一歩だということだ。
これはスポーツやエンタメの世界だけでなく、好きなブランドや近所の飲食店でも同じことだと私は思う。
大変な状況に陥る人が増えている今、「応援」という言葉がいたるところで使われている。
でもはじめは純粋な応援からはじまった気持ちも、時間が経てば徐々に見返りや特別扱いを求めたくなってくることがある。
応援と称して自分をアピールしたり、承認欲求を満たそうとする人もいるかもしれない。
純粋に応援し続けるのは、実はとても難しいことだ。
そもそも応援したいと感じる時点で、私たちはすでに何かをもらっている。
これ以上の何かを求めるのではなく、もらったものを少しでも返していけるように、そしてさらなる力になるように。
そんな幸福な関係が、ずっと続いていてほしいと願っている。
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