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人生は「無駄なこと」でできている

窓を全開にして夜風に吹かれながら、ふうっ、と天井を見上げる。
特に何をするでもなく、初夏の空気を感じながら「こんなときでも季節は進むのだなあ」と考えたりしていた。

スーパーに行った帰り道、人が少ない場所を選びながら散歩をする。
あっというまに桜の季節は終わり、新緑のまぶしさが目に飛び込んでくるようになった。

1日のほとんどの時間を家の中で過ごすようになって早1ヶ月。
少し前の自分ならば無駄だと切り捨てていたような時間を、意図的に作るようになった。

家の中で仕事をし、生活のすべてを徒歩圏内で済ませ、ときどきオンラインで買ったものが家に届けられる。
私たちは今、現代社会が成しうる最高レベルの効率化された生活を送っている。

通勤もしなくてよければ、営業のための移動に時間がとられることもない。
起きてすぐにPCのスイッチを入れれば仕事を開始でき、出かけずともあらゆるエンターテイメントを自宅で享受できる。

生産も消費も極度に効率化された世界に、私たちは生きている。

しかし同時に、この生活の中で正気を保つには無駄な時間が必要だということにも気づく。

道端に咲く花のみずみずしさや空の青さを感じたところで、何も生産されないし経済を動かすこともない。
それでもこんなときだからこそその美しさに心惹かれてしまうのは、一見とるにたりない「無駄なこと」こそが人生を作っているからなのかもしれない。

この生活がはじまる以前、強制された無駄も多かった。
鉄の箱に揺られて過ごす時間も、大量の書類とそれに付随する押印も、私たちが長らくうんざりしてきた「無駄」だ。

そして今、私たちに強制される無駄はほとんどなくなった。
いや、なくならざるを得なくなったと表現する方が正しいかもしれない。

しかし人生はわかりやすく「意味のあるもの」だけで埋めることはできない。
効率化と価値の最大化のみを求めていった先では、生きる意味にぶつかることになるからだ。

サルトルは、人間の実存は本質に先立つと言った。
私たちは何か目的があって作られたものではなく、まず先に存在があり、その本質は後天的に見つけていくしかないのだと。

自分の生の意味なんて壮大なものは死ぬ間際になってもわからないだろうけれど、振り返ったときに愛しく思うのは何気ない一瞬、他人からは無駄に見えるような時間なのではないかと思う。

価値のないものにこそ、価値がある。

私たちの生を支えているのは、輝かしい「無駄なこと」の集まりなのだ。

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