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疑いようもなく、桜の樹の下にはたしかに屍体が埋まっている

桜の名残を踏みしめながら、ふと梶井基次郎がこの感覚を発見し、言語化した瞬間を追体験したような気がした。ああ、そういうことだったのかとひとり合点し、たしかに「そうあらねばならない」と確信した。

美しさは、常に悲しみと対になっている。美術品も建築物も風景も、そして人間さえも、美しいものは争いに巻き込まれずにはおれないからだ。南国のビーチで眺める夕日も、歴史ある建造物も、その下には概念としての「屍体」が埋まっている。これまでに数えきれないほどの人の涙や血を吸い上げて、今私たちの前にその美が花開いている。美しいものを見て涙が出るのは、そこに内包されている悲しみを追体験させられるからなのだろう。

私は美しいものが好きだ。だから旅をするなら美しい場所を選びたい。あとからとってつけたように整えた美しさではなく、時間をかけて生の苦しみと悲しみが積み上げられてきた場所。美しさを「観る」とき、私たちはその美が持つ陰鬱さを避けては通れない。桜の樹の下には、屍体が埋まっているのだから。

美しいものは、ただ純粋な美しさ、朗らかで明るい健やかさのみで作られるのではない。禍々しく、不気味で得体の知れないものがどろりとした感触でその下に横たわっている。鑑賞とは、桜の木の下に埋まる屍体まで内包し思いを馳せることなのではないかと思う。美しさの中に隠された悲しみや苦しみを見出せる鑑賞者でありたいと思う。

表面だけ整えられた美しさには、ただ無機質な輝きだけが宿っている。花を開かせるにはまず屍体を埋めるところからはじめなければならないのかもしれない。目を背けたいものを、美の根本に据える覚悟が、必要なのかもしれない。

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ほとんど葉桜になってしまった樹を見上げながら、そばにあったベンチに腰を下ろす。さっき買ったばかりのたい焼きをゆっくりと半分に割る。綺麗に割れ切ったところで、はみ出した餡子の欠片がぽとりと地面に落ちる。たい焼きの半分を無言で食べながら、来年もここの桜は美しく咲くのだろうと思わずにはいられなかった。

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