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「大人のまなびなおし」に必要なこと

あらゆる活動がオンラインで完結できるようになったことで、「まなび」の選択肢も多様化している。

逆に、これまで通学が前提となっていた大学が強制的にオンライン講義に移行したことで、従来の教育機関の存在意義も問い直されているように思う。
働きながらまなぶための利便性が上がった一方で、オンライン講義を聞くだけならもっと安価に知識を得る方法はある。
学校だからこそ得られる知識と経験とは何か。
価値の再定義が今、求められている。

私も数年前からうっすらと「大学院でまなびたい」という願望を抱いてきた。
さらに昨年末スコットランドでの語学留学を経験したことで、海外の大学院で研究したいという明確な目標もできた。

講義のオンライン化は今後もしばらく続いていくはずなので、ゆくゆくは引越しをすることなく海外の大学院に通い、学位を取得することもできるようになるかもしれない。
もしそうなったときに果たして私は日本にいながら海外の大学院に通いたいだろうか、とふと考えてみた。

大学院に行くとしても現在の仕事と並行しながらになるので、日本在住のまま学ぶことができるのはとても便利なことに思える。
しかし大学院に進学することの価値は、新たな知識の獲得よりも「研究の仕方を習得すること」にあると私は考えている。
はたしてオンラインだけで実現可能なものなのだろうか。

大学時代の私はとても不勉強な学生だったので、研究のいろはを身に付けることなく卒業してしまった。
研究テーマの設定や仮説に対する検証方法、文献の調べ方、論理的な文章の構築方法や査読によるブラッシュアップなど、研究する上で必要不可欠な知識を体得せずに20代を終えてしまったことは、大きな後悔のひとつである。

なぜならば、仕事とは常に「研究」の繰り返しだからである。
自ら仮説を立て、実験によって仮説を検証し、その結果を他の人にも理解できるようにまとめ、批評を受けることによって精度をあげていく。
考える仕事は常にこの繰り返しであり、研究の仕方というOSがインストールされていなければ小手先のスキルだけ習得してもうまく動かせないことが多い。

多くの人は大学卒業後に研究の重要性に気づき、自分で試行錯誤しながらそれぞれの「研究」を行っている。
私もこの10年は自己流で学んできたが、年を追うごとに「まなび方をまなびたい」欲求が高まっている。

そしておそらく、今後大学や大学院が提供する価値は、まなび方の基本を指導しながら伴走することに集約されていくのだろうと思う。

知識を得るためのコンテンツはインターネット上にいくらでも溢れている。
今や最先端の研究をしている科学者や教授たちもSNSで発信しているし、スタディサプリを使えば月に1000円ほどで基礎的な知識のおさらいもできる。

しかし学ぶための方法がどれだけたくさんあっても、「正しいまなび方」を知らなければ時間を無駄にしてしまう可能性が高い。
ある分野において、これまでの研究の系譜や信頼性の高い情報の見分け方を知り、自分が設定した課題を解決するためのアプローチに対して適宜フィードバックをもらい、「まなび方」をアップデートしていくこと。

それこそが、今後最高学府としての大学に求められる価値なのではないかと思う。

私は常日頃からこうして自分の意見や仮説を書き綴っているけれども、自分が書いた結論に対して不安に思うことも多々ある。
発信をしている人は少なからず同様の不安を抱えているはずだが、SNSを通して得られるフィードバックに傷つくケースも多い。
それは単に自分の意見を否定されたからではなく、内容の理解が異なっていることへのストレスが大きいのではないかと私は思っている。
「わかってもらえなかった」ストレスは、私たちが思うよりも大きいものだ。

だからこそ、理論的に内容を精査して誤りや曖昧な箇所を指摘し、研究内容の精度をあげるための査読に価値が出てくる。
「どちらが正しいか」と戦うのではなく、「より真理に近い道はどこか」を目指して協力していくことこそが、学ぶ人に必要な姿勢だと私は思う。

そうした「まなび方」の教育が、人生100年時代における「大人のまなびなおし」に求められているのではないだろうか。

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