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この声援が、たとえあなたに届かなくても

さっきまで耳を塞ぎたくなるほどの音量で聞こえていた応援の声が、ふっと消える瞬間がある。

審判の「はじめ」の声が聞こえたら、世界には私と相手しかいなくなる。

「どんなに応援してもらっても、戦うのは私自身なのだ」

当たり前すぎるほど当たり前のことを、年間何十回もある試合の中で、何度も噛み締めていた。

***

勝負の瞬間には、静けさと騒がしさが同居している。

敵も味方もそれ以外の人たちも、多くの目が息を飲むように選手の一挙手一投足を見ている。そして勝負が動く瞬間、会場が震えるほどの声援に変わる。

野球を見に行くたび、自分が経験してきたこのコントラストが体感として蘇る。

そして相対する両者を見ながら、きっと私たちのこの声は聞こえていないだろうな、とどこか冷静に考えている自分がいる。

「声援が力になる」という言葉に嘘はないけれど、勝負の瞬間には耳に入っていないことが多いんじゃないか、と自分の体験から思うのだ。

しかし、たとえそれがわかっていても声援を送らずにいられないのは、もはや応援というのは彼らのためではなくて、自分のためだからなのかもしれない。

自分が代わってあげられるわけでもなく、祈ることしかできない私は、球場においてはただただ無力な存在だ。気持ちばかりが急いて、ハラハラして、胃がきゅうっと痛くなるような場面で私ができるのは、応援の声を張り上げることくらいしかない。

だからたとえ届かなくても、伝わらなくても、私は今日も彼らに声援を送り続ける。

***

わあっ、という歓声が自分の耳に戻ってきた瞬間が、私と相手のどちらに軍配が上がったか決まったときだ。

勝って誇らしく戻るときも、負けてうなだれて帰るときもあったけれど、どんなときでもいつも一番に聞こえてきたのは仲間の声だった。

だから応援というのはきっと、「帰る場所を作る」ということなんだろうと思う。

勝負の一瞬一瞬には届かないかもしれないけれど、自分の勝利や活躍を望んでくれる人がいて、もし今回はダメでも自分には帰る場所があるんだと実感させてくれるもの。

それを私たちは応援と呼ぶのかもしれない。

梅雨空に虹のようにかかった青木のアーチにはしゃぎながら、そんなことを考えていた。

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